善光寺地震の供養と石造物

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災害からの復旧は家屋の再建、用水の確保などライフラインの復旧からはじまり、生活の立て直しがはかられた。また、犠牲者の追善供養を営み、人心の安定に努め、被災者の精神的な落ち着きを取りもどすことも復旧策としては大切な施策である。

 善光寺地震後の追善供養は、権堂村の永井善左衛門幸一が、地震後七日目の四月一日に権堂村郊外で、普済寺の巨竹和尚ら八人の僧侶を招いておこなった施餓鬼(せがき)法要が早い例で、人びとの自由な参拝を認めている。『地震後世俗語之種』には盛大な法要のようすが描かれている。善光寺も箱清水に設けた仮堂で四月十三日から一〇〇日間の朝施餓鬼法要をおこなった。松代藩は地震の約一ヵ月後「変死亡霊冥福(めいふく)のため、妻女山(さいじょざん)において施餓鬼せよと、長国寺へ命ぜられぬ」(『むしくら日記』)とあり、四月二十八日に妻女山で法要を執りおこなった。公事(くじ)方・勘定役の役人が麻上下(かみしも)の正装で参列し、同心も多く参列した。町方・在方からも多く参列し「二、三千人も寄せ集まりし」とある。また、「死失の者一人へ塔婆(とうば)一本ずつを給わりぬ」とあり、御普請方で経木三千本余りを準備してあたえた(『むしくら日記』)。藩として施餓鬼法要を盛大に営み、庶民も多く参列するなど、地震後一ヵ月ということもあり、犠牲者を供養する人びとの篤(あつ)い供養の気持ちが伝わってくる。このような施餓鬼供養は須坂・飯山両藩でもおこなわれている。領主として人心の安定に努め、災害後の秩序安定をはかっている。


写真12 権堂村郊外での施餓鬼法要
  (『地震後世俗語之種』真田宝物館蔵)

 このような追善供養などが契機となり、善光寺地震関係の供養碑などの石造物が、長野市域に二〇基余り造立(ぞうりゅう)されている(『長野市の石造文化財』①~⑤)。未確認の石造物もあると考えられるので、善光寺地震に関係する石造物はもっと多いであろう。

 種別では馬頭観音像が一二基余りと最多で、造立者は個人がほとんどである。地域としては松代藩山中(さんちゅう)が多く、なかでも芋井地区に多くみられる。地震で馬が死亡したことは、馬を大切にしていた百姓にとって悲しみであり痛手でもあったろう。追善供養塔としては「地震横死塚」(善光寺山門東がわ)がある。基壇ともに約六メートルの宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。善光寺地震の犠牲者で旅人などの無縁者を葬ったもので、発願者は上田海野町の商人土屋仁輔で、善光寺町の山崎文沖(ぶんちゅう)(医師)・久五郎・石工吉左衛門・鳶頭(とびがしら)常八などが協力して造立している。地震塚の北がわには、間口二間半、奥行二間の草庵(そうあん)が建立され、「日々本坊より道心者差し遣わし、不断念仏修行致させ回向(えこう)候こと」(『新収日本地震史料』⑤)とあるから、当初は毎日仏事が営まれていたようである。また、地震塚の南がわに「一字一石供養塔」がある。地震犠牲者の供養のため、経文を一石に一字書き写し埋めた供養塔で、大勧進住職の山海が弘化五年二月に造立している。


写真13 一字一石供養塔
  (善光寺境内)

 松代藩は妻女山での施餓鬼法要後の嘉永二年(一八四九)三月、三回忌にあたり妻女山に「罹災(りさい)横死供養塔」を造立した。銘文には、後世の人びとにこの災害を伝えるためという造立の目的が刻字され、「圧死・焚死(ふんし)男女二千七百六十四人(中略)溺死男女四十六人」と記されている。この供養碑の造立は「妻女山の三災亡霊の碑は、予が懸かりにて、御建立也」(『むしくら日記』)とあって、家老の河原綱徳が担当した。このような供養碑から、生き残った人びとがそれぞれの立場で、犠牲者の菩提をあつく弔っているのがわかる。

 善光寺地震は大災害であり、復旧のためには領民の自助努力だけでなく、領主の施策も大きく影響した。領民は災害という危機を通じて、自領の領主と他領の領主の救済活動、復旧策をくらべるなかで、領主を評価したと考えられる。仁政を感謝し顕彰して生き神としてまつることもあった。先述したように弘化四年に長沼上町・津野村(長沼)は中之条代官の川上金吾助をまつる「御代官川上様小社」の石祠(せきし)を造立している。また、真光寺村は嘉永元年(一八四八)四月、中野代官の高木清左衛門を「高木大明神」として石祠を建ててまつった。このように石造物からも善光寺地震の一端がうかがえるのである。