利根川とその支流が流れる関東平野は、江戸初期から中期にかけて新田開発が進展した。しかし、洪水も多発し、慶長元年(一五九六)から元禄十六年(一七〇三)に大風雨・霖雨(りんう)(長雨)などによって起こった大きな洪水は、二一回にもおよんでいる。享保七年(一七二二)に新田開発令が出されたあとには遊水池や湖沼の開発がすすみ、この結果洪水による被害が増大した。
江戸幕府の災害にたいする対応は、享保(きょうほう)改革以前は主として郡代・代官が担当した。堤川除(つつみかわよけ)普請や用悪水元堰(もとせぎ)・元圦樋(もといりひ)などの大規模な治水事業は、定式普請のほか、洪水発生後には臨時的な対応がとられた。寛文期(一六六一~七三)には、関東郡代・代官をはじめ勘定組頭・勘定・作事奉行・普請奉行・寄合などが派遣されたが、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)には上野(こうずけ)(群馬県)・下野(しもつけ)(栃木県)の水路奉行が任命されている。享保改革期になると勘定所の機構が整備され、享保九年(一七二四)に普請役がおかれた。普請役は、在方普請役などと名称が変わるが、当初は一二人だったものが、同十三年には八六人となり、のちさらに増員されている。普請役がおかれた翌十年には四川奉行が新設されて江戸川・鬼怒(きぬ)川・小貝川・下利根川を担当し、さらに関東の諸川に職権が拡大された。四川奉行は、享保十六年に廃止された(大谷貞夫『江戸幕府治水史の研究』)。
洪水から田畑や建物・人命を守る治水の方法は、甲州流の流れをくむといわれる伊奈忠順(いなただのぶ)らの関東流(伊奈流)から、伊沢弥惣兵衛(やそべえ)の紀州流へと変わったといわれてきた。治水の職制が確立した享保期前後には、伊奈忠順・忠逵(ただみち)が活躍しており、遊水池を設けたり、洪水のさいの越流(えつりゅう)を見こんだ堤防(霞堤(かすみつつみ))を構築し、治水・利水技術が発達して新田開発が進んだ。これにたいして伊沢弥惣兵衛は、連続堤を構築して低湿地の新田開発が進んだとされる。しかし、関東流・紀州流が両者によって定型的におこなわれたという明確な区別はつけにくい。洪水後の臨時的な対応のなかで、技術者たちが現地で適当と判断する方式によって普請がおこなわれ、新田開発が進められたのであろう。
新田開発が進展するにしたがい弊害が指摘されるようになるが、そのひとつとして河川の保護があげられている。たとえば、林地・草地の新田開発によって土地・地勢が変移するとか、開発によって土砂が流出し、川沢(せんたく)が陸化して田畑が池沼(ちしょう)化するという主張である。太宰春台(だざいしゅんだい)(一六八〇~一七四七)は、新田開発を是認しながら、平原・川沢・湖沼・山林・海の五土の効用を述べ、「池沼は旱魃(かんばつ)のときに水を引き、霖雨で大水が出たときは水を溜(た)める」として川沢・湖沼の新田開発を禁止するよう提言している。幕府は享保五年に、秣場(まぐさば)・河川付寄州(つけよりす)の開発や、川筋の河原に竹・木・葦(あし)・萱(かや)を仕立て川面に迫ることを禁じている。寛政年間(一七八九~一八〇一)にも同様の禁止がなされているが、川筋の保全がむずかしい状況であったことがうかがわれる(菊地利夫『新田開発』)。