幕府の治水の仕方や方法(普請仕法)をみると、宝永元年(一七〇四)に利根川・荒川の普請にさいし大名手伝い普請を命じている。幕府は近世初頭以来、城郭・河川・寺社・御所の普請にあたって特定の大名に手伝い普請を命じてきたが、河川の手伝い普請は中断していた。宝永元年に畿内(きない)の大和川改修で大名手伝い普請を命じたあと、関東の河川でも大名手伝い普請が課されることになった。大名手伝い普請は、関東・東海道・甲斐(かい)(山梨県)・美濃(みの)(岐阜県)・伊勢(三重県)・尾張(おわり)(愛知県)など各地の河川でおこなわれたが、建設費や藩士の滞在費などの入用が多く、大名に重い負担がのしかかった。のちには大名の拝領高に応じて費用を負担する、お金手伝い普請がおこなわれた。大名手伝い普請によって藩財政が窮迫したため、幕府はのち宝暦七年(一七五七)に普請費用を幕府が負担する公儀(こうぎ)普請をおこなうこととしたが、関東・東海道など主要地域でなされた数回にとどまった(大谷貞夫『江戸幕府治水政策史の研究』)。
幕府は、享保五年(一七二〇)五月に国役(くにやく)普請をおこなう法令を出した。二〇万石以上の大名は自力で藩領の川除(かわよ)け普請をするが、直轄地・旗本知行所・寺社領と二〇万石以下の大名領については幕府が普請を施行し、普請費用は幕府が立て替えておき、その一部を幕府が出し、残りは国ごとに村々から取りたてるというものであった。享保五年の日光大谷(おおや)川・竹鼻川の初の国役普請では、普請費用の五分の一を幕府が負担し、残りは村々から高一〇〇石につき金一分銀七匁ずつを取りたてた。同六年の大風雨で信濃・上野(こうずけ)をはじめ全国的に被害をうけると、翌七年、幕府は畿内の河川のほか、利根川・江戸川など関東の河川でも国役普請をおこなった(同前書)。その後の国役普請は、幕府が普請費用の一〇分の一を負担し、残りは幕府が定めた河川群ごとにその費用を負担する国々を定めておいて取りたてる方式が定着した。信濃がかかわる河川と国々はつぎのようである。
当初は、駿河(するが)(静岡県)富士川・安倍川、遠江(とおとうみ)(同)大井川・天竜川、信濃千曲川・犀川の六河川をひとまとまりとし、その国役金は駿河・遠江・三河(みかわ)(愛知県)・信濃および甲斐郡内(ぐんない)領の五ヵ国に割りあてられた。ただし、普請に五〇〇〇両以上かかった場合は五ヵ国に課せられ、五五〇〇両以上かかった場合には伊勢・伊豆(静岡県)を加えた七ヵ国に課される。享保十一年には千曲川以外の五河川で国役普請がなされ、五ヵ国に高一〇〇石につき金二分銀一一匁七分が課せられた。のちには特定河川に酒匂(さかわ)川が加えられて七河川となり、国役金負担国は相模(さがみ)(神奈川県)を入れて八ヵ国となる。しかし、享保十七年には国役普請は中止された。再開されたのは宝暦八年(一七五八)である(同前書)。松代領は宝暦七年の満水で千曲川・犀川筋が大きな被害をうけ、幕府普請役倉橋定右衛門らが見分にきたが、中断期間中のことで、その後どのような普請がおこなわれたかは不明である(災害史料①)。