洪水と国役普請願い

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明和二年(一七六五)四月十五・十六両日は大雨で、千曲川が常水より一丈五尺、犀川が二丈三尺の増水となり、谷川も氾濫(はんらん)する領内全域におよぶ大災害となった。松代藩は公儀に本田・新田高五万三八六五石余、一九二ヵ村の損毛と水損の届けを出し、一万両の拝借金を得て救難と災害復旧をおこない、川除(かわよ)け普請でも応急的な補修をおこなった。同五年八月に国役御普請願いを出し、明和六年から大規模な御普請がはじまり、翌七年に完成した。ところが、明和九年(安永元年、一七七二)、近年にない大水が出て、国役普請所の八分(八〇パーセント)通りが損壊した。藩は勘定所へ国役普請を申したて、同年中に普請が完成した。明和九年から安永四年までの大井川・富士川・安倍川・天竜川・酒匂川・千曲川普請国役懸りは、駿河・信濃など八ヵ国へ高一〇〇石につき金一分銀一四匁七分八毛で、村々から取りたてた(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。

 安永四年から八年は、東海道筋大井川・富士川・安倍川・天竜川・酒匂川、信州千曲川・犀川の国役御普請がおこなわれ、松代領一九五ヵ村は四七三両一分銀七匁(高一〇〇石につき金一分銀一四匁六分六厘五毛)が課された。御朱印寺社領は、三五ヵ村の九両二分銀二匁余であった(『更級埴科地方誌』③上)。

 洪水によって壊滅的な被害をうけた村々は、普請所・川除けの復旧を願いでているが、復旧後の割り掛け金を納める余力はなく、藩は五分(五〇パーセント)以上の水害損毛高が生じた村々の国役金免除を公儀へ願いでている。これにたいする幕府の方針は、安永十年(天明元年、一七八一)の場合、「五分以上の水損・旱損について申し立てがあれば、吟味のうえ年延べまたは免除がありうる。しかし、願いによって国役普請をした私領の出金は、六分、七分以上の損毛があっても免除の例はない。国役普請の一〇分の一は公儀御入用であるが、私領出金は、村方が自力困難のときには領主(大名)・地頭(旗本)が差しだすように」と申し渡している(災害史料③)。

 いっぽう、松代藩は、領内村々から水損見分願いに関して、水損には軽重があるということから、役人に見分心得を申し渡した。明和五年(一七六八)五月の見分心得(災害史料①)の大要はつぎのようである。①麦作は、刈場の時節に水入りしても差し障りがないから取りあげない。水押し田で麦作を押し倒し、泥入りした場合は取り実がないので水損とする。②木綿・大豆は、深水の場所は用立たないので、見分のうえほかの作付けを申しつける。「春地木綿」の仕付けは近年多くない。③苗間(苗代)は、ひととおりの水入りは差し障りがない。泥入り・砂入りの分は用立たないので、何十石植えの田の苗か問いただして、もらい苗をして仕付けるよう申しつける。④砂入り願いには、起き返して高請けし作毛(さくげ)仕付けに出精するように申しつける。夏毛が用立たない分は、「半毛御手充(おてあて)」もありうる。重い砂入りで再開発できない願いは、当秋中巡村する大検見(おおけみ)へ願いでること。⑤山抜けは、軽重を見分けしだい大検見へ願いでること。⑥川欠けは、見分のうえ大検見へ願いでること(山中麻作・用水堰・川除け・御普請所・土手・道・建物・橋・舟・流木のことがあるが省略)。水損についてこのようにきびしく査定したが、江戸後期には洪水被害が増加した。

 洪水に苦しむ村々が頼りにした国役普請所は、洪水のたびに損壊が繰りかえされた。水損届には「国役御普請所は大半押し破られ」「国役御普請所ならびに所々川除け土堤押し破り」と記述され、被害箇所は、「川除け地損じ四六一〇間余、石枠流損一六九ヶ所、〆切流れ七九〇間、同岸囲い指出流れ一三六ヶ所」(天明三年)のように書かれるため、国役普請所と藩御手普請所あるいは村々自普請所とを区別することはむずかしい。寛政二年(一七九〇)八月二十日の千曲川・犀川洪水は、夏に仕立てたばかりの国役御普請所を水破・流失したため、被害一五ヵ村を書きだしている。更級郡の網掛(坂城町)、力石・本八幡(千曲市)、牛島(若穂)、真島(更北真島町)・丹波島(更北丹波島)、川合新田(大豆島)、埴科郡の鼠宿(ねずみじゅく)(坂城町)、千本柳・粟佐(あわさ)・土口(どぐち)(千曲市)、高井郡の大室(おおむろ)(松代町)、福島(ふくじま)(須坂市)、水内郡の村山(柳原)、市村(芹田)の諸村国役普請所が損壊した。長野市域では、千曲川・犀川流域の七ヵ村が被害をうけた。国役普請は、八ヵ国の諸河川で継続的におこなわれた。天明四年(一七八四)から文化十一年(一八一四)にいたる信濃など八ヵ国の国役懸り金は、表21のようであるが、高一〇〇石あたりの負担は、天明九年(寛政元年、一七八九)以降に大きな変動がみられない。


表21 信濃など8ヵ国国役懸り金