江戸時代の治水は、田畑と集落を洪水から守るとともに、新田開発・用水堰開発をおこなう利水と併せた機能を果たしていたと考えられる。川の流れを制御し、ひんぱんに起きる洪水から耕地や集落、取水施設などの水利施設を守るために川除(かわよ)け普請がおこなわれた。川除け普請は河川の改修工事のことで、平常水位をこえる洪水を防ぎ、田畑や集落内に入りこむ水勢をやわらげる堤防が基本的な施設であった。松代領では、堤防を「堤(つつみ)」「土堤(手)(どて)」とよび、「砂利堤」と記述することもある。「石積み」「石張り」は、ほんらい護岸に施工される工法で、堤防そのものではない。堤防の法(のり)面には、土の流失を防ぐ芝付けをほどこした。芝のかわりに萱(かや)・粗朶(そだ)・松葉などを重ね組み、法面を保全する羽口(はぐち)工法も用いられた。堤防の形態をあらわす呼称は、千曲川・犀川筋では「百間土堤」「広土手」など長さや幅にちなむものが散見されるが、連続堤・雁堤(かりがねつつみ)(霞(かすみ)堤)という呼称については判然としない。
川の浸食から土堤や川辺の土地を守る水制(すいせい)は、「川除け」とよばれる。土堤をふくめて「川除け」という場合もあるので紛らわしいが、川除けにはさまざまな工法があり、河川の状況に応じた普請がおこなわれた。江戸時代には、現在「伝統工法」として再認識されている工法が普及していた。松代領で施工された「川除け」の事例を、寛政二年(一七九〇)「水破流失の覚」からまとめると、表22のようになる。国役御普請所では、土堤・砂利堤と石積み・出しおよび水制の牛(うし)類・枠(わく)類がみられる。御手普請所もほぼ同様である。水制以外では、「堀川」が押し埋められる被害がでた。川除け普請で一般的におこなわれた水制は、文化二年(一八〇五)四ッ屋村(川中島町)・丹波島村国役御普請所仕様(表23・24)および文久元年(一八六一)「真田信濃守領分信州犀川通り村々堤川除国役御普請出来形(できがた)帳」により作成した堤川除普請仕様(表25)と併せてみると、ほぼ各種類が出そろっている。
はじめに、川の流れを変え、川岸の浸食を抑えようとする「出し」(水刎(みずはね)・刎)をみてみよう。文化二年の「水刎石積み」、文久元年の「土出し」「石出し鼻」は、犀川の急流に構築されている。ただし「石積み」が出しと思われる場合もある。土出しは、土砂で構築するので全面を石あるいは籠(かご)で覆(おお)うため、石の場合に「石積み」と呼称するのではないだろうか。このほか、蛇籠(じゃかご)・杭(くい)をもって出しを構築する場合もある。出し(水刎)は、千曲川・犀川のとくに川の流れが強く突きあたる「水あたり部」(水衝部(すいしょうぶ))に多く構築され、岸辺から流れに直角あるいはやや下流へ突きだし、流れを対岸へ向ける。大きさはさまざまで、坂木宿(坂城町)御普請所の常山隄(堤)(じょうざんてい)は「大土堤(おおどて)」とよばれた。
つぎに、水あたりを防ぎ、護岸根固めおよび水流の締め切りに用いる牛類がある。表では菱牛(ひしうし)・小牛・笈牛(おいうし)の三種がみられるが、ほかに四種類がある。それぞれの牛類には大小があり、蛇籠を桁木(けたぎ)・敷木(しきぎ)の上に載せて水中に沈めた。蛇籠は、竹・藤つるで編み、石を詰める。用水堰普請では、笈牛のほか聖牛(ひじりうし)も多用されて「ひじり」とよばれていた。菱牛は、菱形の水制で扱いやすいので千曲川・犀川で多く使われた。笈牛も菱牛と同じで、護岸・根固めや締め切りに多用された(図5)。
枠類は、丸太で組み立てた枠に石を詰めて沈め、護岸・根固めや仮締め切りに用いる工法である。表では沈枠(しずめわく)・続(つづき)枠・合掌(がっしょう)枠・楯(たて)枠・鳥居(とりい)枠がみられるが、千曲川では弁慶(べんけい)枠も用いられた(図6)。川の流れを締め切るときは沈枠を連続させた続枠を雁行させた。
千曲川・犀川の川除け普請の状況を克明にあらわしたのは、嘉永五年(一八五二)に松代藩道橋奉行が作成した「千曲川鼠宿村従西寺尾村迄絵図」(図7)「犀川小市渡ヨリ千曲川牛嶋落合迄絵図」(図8)である。古御普請堤・未(ひつじ)年御普請堤・申(さる)年より御手普請および水制が記載されている。洪水常襲地域にたいする治水対策が、寛保(かんぽう)二年以降繰りかえされたことが読みとれる。