洪水の増加と水防

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幕府は、享保年間(一七一六~三六)、安永年間(一七七二~八一)にも新田開発について触れを出したが、寛政十二年(一八〇〇)四月に諸国の川筋が押し埋まり、水行が悪くなったことにたいしてつぎのような触れを出した。大要は、御領・私領に限らず川通りの付寄州(つけよりす)を新規にひらくことはもちろん、葭(よし)・真菰(まこも)を植えて寄州を張りだすことを禁止する。葭などが生いたった場所は刈り払い、付寄州にならないよう心がけること。ただし、私領のうち田畑が川欠けになった分の起き返りをおこなうときは勘定所の指図をうけること、という趣旨であった。

 この触れにたいして松代藩は川辺の開発には問題がないという見解であった。国元から江戸留守居にたいし公儀への問い合わせを依頼した文書で、その理由をつぎのように述べている。「領内村々には無高の付寄州はなく、古川筋の葭・柳は伐りはらってきたので問題はない。但し書は古田畑起き返りに鍬(くわ)入れを禁止しているが、手入れをしないと水防が乱れる。本文の趣意は高外の付寄州のことで、但し書きには矛盾がある。松代藩の付寄州は本・新田御書上のうちである。付寄州を放置すれば高が欠け、民家も欠けこんで亡所となる。村境・人別地境も混雑して村々が落ち着かなくなる。川辺通りは今までのように葭・柳の手入れをし、川筋が直りしだい起き返りをする」。よってこれらのことを公儀に問いあわせしてほしいとする(災害史料⑦)。

 江戸時代には川除け普請の技術が発達し、土堤を構築し、さまざまな水制によって護岸をおこなった。このほか水防のため川岸に柳を植えたり柵(しがらみ)をつくった。寛永元年(一六二四)には、上田藩主仙石忠政が稲荷山・塩崎の村人に柳を植えさせたといわれる。享保五年(一七二〇)小林丹右衛門は「川除け仕様帳」で、河原に柳の太い枝を打ちこむか、細い枝を畝(うね)に伏せ植えするなどして、洪水のたびに地形(じぎょう)が高くなるのを待って開発するよう説いている。柵は、杭柵(くいさく)・竹柵に粗朶(そだ)を掻(か)きつける古くからの工法である。城裏の千曲川西に島ができて水先が城にあたるので、宝永二年(一七〇五)七月、南の方に「らんくい」を二重、三重に打って水先を回すように申しつけている(家老日記Ⅱ)。乱杭は柵の一種で、水流を通すので優れた工法である。

 川辺の村々は、共同で「自普請」をおこない、洪水のさいに寺社や民家、川辺の樹木を切って「木流し」をして土堤を守ったり、「ねこ」や畳をもちだして水防に努めた。堤防の構築は、両岸の利害が反するため、川除け普請について証文をかわすこともあった。綿内本郷(若穂)と土屋坊(どやぼう)組(朝陽南屋島)は、洪水の常襲地域のひとつで、千曲川をはさんで川除け普請の仕方で対立することがあった。文政七年(一八二四)に示談となったおもな事項は、①川西の万年島組は、川瀬が東方へ向かって御本田地へ当たるので普請を当分見合わせる。ただし、住居が危なくなったときは、お願い立てをする。②川東の牛島境から福島村境までは、これまでの仕来たりのとおりで差し支えない。ただし、刎出しなどは、川西の耕地に差し支えないようにする。③芦ノ町西の普請は、古形・新規にかかわらず川瀬締め切り・堀割り・刎出を水行の差し支えにならないようにする。普請は、御見分を願い、その下知(げち)をうけておこなう。士屋坊組にも右のようにする。④土屋坊組は、川欠けのときは御普請を願いでて本郷の村役人が内見する。御本田地へ差し障りがなく村方にも支障がないようにわきまえ普請をおこなう(『綿内区有文書』長野市博蔵)。このほか、普請費用の負担方法などもこまかく取り決めている。

 洪水にたいしては、一村だけでなく普請組合をつくって川除け堤防を普請するなど、防水体制がととのえられていった。