慶長(けいちょう)四年(一五九九)に豊臣秀頼が復興した如来(にょらい)堂(本堂)は、「内陣外陣(ないじんげじん)天下無雙之精舎也(むそうのしょうじゃなり)」と伝えられるが、元和(げんな)元年(一六一五)雷火により焼失した。このあと仮堂(かりどう)が慶安三年(一六五〇)、寛文(かんぶん)六年(一六六六)と建てられたが、寛文仮堂も三〇年余のあいだに大破し、元禄五年(一六九二)から本格的な本堂再建計画が始まる(『県史』⑦二〇四五。小林計一郎『善光寺史研究』。以下も同書に負うところが多い)。
元禄の再建は、善光寺が自力でおこない火災で挫折した前半と、幕府が介入して成就にいたる後半との、二段階にわたってなされることになる。
元禄五年四月、大本願上人・大勧進法印・衆徒(しゅと)惣代は連名で、寛永寺の添簡(そえかん)をつけて寺社奉行所へ願書を出した。「善光寺は三国伝来の阿弥陀(あみだ)如来の霊場で、往古は七堂伽藍(がらん)がそろっていた。中古(ちゅうこ)には頼朝公御再興、別して権現様(家康)には寺領の御寄付をいただいたが、数度の火災で諸堂退転、今は本堂も仮堂ゆえ大破し、宝塔・楼門(ろうもん)などは礎石を残すのみである。今度三都で開帳し、その奉加(ほうが)により再興したい」と願い、許可を得た(『県史』⑦二〇四七)。大本願上人・大勧進法印をはじめ僧侶(そうりょ)一行が前立(まえだち)本尊と御印文(ごいんもん)などを奉じ、元禄五年江戸、同七年京都・大坂で出開帳(でがいちょう)をおこない、合計二万七九九九両余の収益をあげた。この資金で再建が具体化する。
本堂再建にあたってまず、幾度も町家(まちや)から類焼した経験から、離して北へ移すことにした。このため、北之門町を城山(じょうやま)下(新町(しんまち))へ移転させ、畑地も上げ地させて、ほぼ一〇〇間四方、一万坪の新敷地を確保し、南をのぞく三方に土塁(どるい)を築き、この地を流れていた湯福(ゆぶく)川を新敷地の北から東へと堀をつくって迂回(うかい)させた。この移転が完了して、元禄十一年二月に敷地の整地が始められた。
造営事業は、大奉行の大勧進・大本願両代官をはじめ善光寺山内のものと町年寄などが諸役を分担した。本堂の設計と施工(せこう)は善光寺大工が中心となった。設計はのちに完成する現存の本堂とほとんど同一である(『県史』⑦二〇四五)。用材は、松本領の中房(なかぶさ)山(南安曇郡穂高町)をはじめ、烏川(からすがわ)山(同郡堀金村)、尾張領木曽の奈良井山(木曽郡楢川村)などから伐りだした。押野(おしの)(東筑摩郡明科町)などで筏(いかだ)に組んで犀川を流し、新町村(信州新町)で筏を組みかえ丹波島(たんばじま)(更北丹波島)までくだし、そこから裾花(すそばな)川をのぼり九反(くたん)(中御所)付近で陸揚げして運んだ。佐久や越後の材も運ばれた。
元禄十一年十一月、戸隠山勧修院(かんじゅいん)を招いて「御地祭り」をおこない、建築工事が進行した。しかし、同十三年七月、門前町から火が出て延焼し、造営中の本堂が焼け落ち、集積してあった良材の大部分も焼失して、再建事業は頓挫(とんざ)した。
元禄十三年十二月、江戸駒込の大保福寺と谷中(やなか)の感応寺の住職慶運(けいうん)が、日光門主(輪王寺宮(りんのうじのみや))の特旨をもって大勧進別当に補せられ、戒善院(かいぜんいん)の号を賜わった。幕府の実力者柳沢吉保(よしやす)の甥(おい)と称する慶運が差しむけられたのは、その背後に、七月の火災やそれ以前からの大勧進・大本願の争いに懸念を覚えた幕府のてこ入れがあったと考えられる。以後、善光寺造営事業は慶運の強力な指揮のもとにすすめられ、大本願も山内諸院や寺役人らも発言権を失う。慶運は、これまでの勧化(かんげ)金の使途をきびしく追及して不足分を関係寺役人らに弁償させ、工事監督権を寺役人らから取りあげ、幕府に内命を願って松代藩の監督下に工事をすすめる態勢をととのえた。
前回の出開帳による資金はなくなっていたので、慶運は新たに出開帳をおこなって資金づくりをしなければならなかったが、元禄十四年三月から江戸の谷中感応寺でおこなった六〇日間の出開帳では三五〇〇両を集めたにとどまった。前回からまもない三都のみの開帳では期待薄とみた慶運は、寺社奉行所に願いでて日本国回国開帳の許可をとりつけ、十四年九月の上総(かずさ)(千葉県)からはじめて宝永(ほうえい)三年(一七〇六)八月まで五ヵ年余の回国開帳をおこなった。長路の出開帳に巡回した一行は、慶運以下三〇人ほどの最小限の人数で、大本願上人は谷中の開帳には加わったが回国開帳には信州へ帰り、寺役人らも排除された。回国の道中、慶運は集まった勧化金をすべて江戸の大保福寺へ送りとどけさせ、松代藩へ預けることにした。
松代藩の「家老日記」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)によると、元禄十四年六月十一日に戒善院(慶運)の使僧が藩江戸屋敷へきて、勧化金をお預けしたいと願ったが、まだ寺社奉行などの了解を得てはいないという。そこで藩役人は、当方で必要な手順をとりあらためて連絡すると答え、同日、寺社奉行永井伊賀守(いがのかみ)(直敬(なおひろ))宅に御内意伺いを持参した。永井は善光寺は自分の担当だが、月番寺社奉行の青山播磨守(はりまのかみ)(幸督(よしまさ))殿とも相談のうえ回答するとした。江戸家老はそのむねを十六日、戒善院と大本願上人へ飛脚便で報じた。十九日、よばれて留守居役が永井宅へ参上したところ、命じるような筋ではないがと断わりつつも、「本堂建立の儀もお世話になり御領分同前の御事(おんこと)に候あいだ、預かり申す様仰せ付けらるるほかは御座あるまじくと存じ候」との回答であった。
このことを、二十一日に戒善院・大本願上人の使僧をよんで告げ、早速翌二十二日に戒善院家来神崎小四郎・大本願家来永田佐左衛門が、勧化金二〇〇〇両を両替屋(りょうがえや)封印のまま持参した。藩役人が両人へ請取(うけとり)証文を書き、その裏書に家老恩田頼母(たのも)・望月監物(もちづきけんもつ)が戒善院・大本願上人宛に「御用しだい御両寺御裏判をもって相渡し申すべく」と記した。以後二、三千両ずつ江戸藩邸に預けられ、松代藩預かり金は二万三〇二八両一分にのぼった。勧化金は江戸屋敷に持参されるが、藩はこれを「為替(かわせ)」として国元に同一金高を厳重に保管した(家老日記I)。
慶運一行が回国開帳をつづけているあいだにも、松代藩の監督下に造営工事が進展する。元禄十六年三月、大本願上人・戒善院の両寺役人から松代藩家老へ、「このたび如来堂建立の儀、何分にも善光寺役人どもへ御指図下され候様に願い奉り候」と正式に依頼した。あわせて、奉加金からの御普請金銭出納はすべて松代藩御役人にお願いしたいなどと頼みこみ、藩は幕府寺社奉行の認可を得て引きうけた(『大勧進文書』)。松代藩からは藩主名代格の家老小山田平大夫(おやまだへいだいふ)、普請統轄の袮津舎人(ねつとねり)をはじめ、足軽級まで総勢四四〇人が乗りこんだ。藩役人が逗留するための居宅小屋は、萱(かや)葺き、土壁、畳敷き(二〇五・五畳)でつくられ、一五八両一分余かかっている(同前文書)。工事の各種実施計画書や材木その他の収支勘定帳類はすべて、松代藩勘定役の点検、藩普請奉行らや小山田平大夫の証印をうけた(同前文書)。造営工事には結果として二万六六二八両一分かかったが、勧化金で足りない分は戒善院一〇〇〇両、松代藩二六〇〇両の立て替え金で埋めた。立て替え金は年賦(ねんぷ)償還となる(「信州善光寺如来堂造営諸色入料勘定帳」『長野史料』信濃教育博物館蔵)。
施工工事は、慶運から依頼された幕府御用大工棟梁(とうりょう)の甲良宗賀(こうらそうが)が統轄(とうかつ)した。宗賀は、前回の設計図を若干簡略化して設計図をつくり、弟子の木村万兵衛らを現地の棟梁として送りこんだ。今回の用材は、主として佐久郡の大日向(おおひなた)村(南佐久郡佐久町)・八那池(やないけ)村(小海町)・南北相木(あいき)村(北相木村・南相木村)・海尻(うみじり)村(南牧村)などから伐りだし、千曲川を流しくだした。千曲川・犀川の合流点から犀川、さらに裾花川へのぼらせ、前回同様九反付近で陸揚げし、大八車(だいはちぐるま)で善光寺へ運んだ。大八車は、江戸から部材を取り寄せ組立工をよんで四〇台用意したという。寺領の旭山・大峰山からも使える木はことごとく伐りだした。前回の烏川山・奈良井山なども候補地だったが、前回の流下で用水施設などを損傷した犀川筋村々が強く反対した。ちなみに、このときの材木流しで取水口・渡し場・漁場などを荒らされた千曲川流域村々は、これ以降のさまざまな材木流し計画に一貫して強硬に反対する。
木村万兵衛らは元禄十六年五月に地割り、十七年九月に細工始めと進捗させ、宝永二年(一七〇五)四月十六日江戸から甲良宗賀もきて「如来堂御事始め」の儀式がおこなわれた。工事は急ピッチですすみ、宝永四年七月十二日に落成した。八月十三日、西町西方寺に遷座していた如来が迎えられ、翌十四日「御堂御供養」の儀式が営まれて、新本堂は完成した(国宝)。