元禄・宝永の本堂再建は、その出開帳のさい本堂以外の諸堂再建をも目的としていたが、それは果たせなかった。本堂再建からまもないころ、伊勢白子(しろこ)(三重県鈴鹿市)出身で江戸中橋上槇町(まきちょう)(中央区日本橋)で石屋を営んでいた大竹屋(姓は香庄(こうのしょう))平兵衛が善光寺桜小路(桜枝町)に隠棲(いんせい)し、敷石寄進を善光寺に申しでた。金三〇〇両が寄進され、腰村(西長野)の石工(いしく)らの手で、主として郷路山(ごうろやま)の石材を使い、いまも残る参道敷石が正徳四年(一七一四)に完成をみた。
本堂再建から三〇年あまりたった元文(げんぶん)五年(一七四〇)、善光寺は本堂修復とともに三門(山門)(さんもん)・仁王門(におうもん)・経蔵(きょうぞう)などの造営をかかげた三都出開帳を寺社奉行所に出願して許された。まず、同年五月一日から七月一日まで江戸回向(えこう)院で開催した。回向院は明暦(めいれき)三年(一六五七)大火の無縁仏十万数千人を埋葬したのに始まる寺で、境内は諸国の霊仏の出開帳に用いられている。寛保(かんぽう)元年(一七四一)三月二十一日から五月十六日まで京都養源院(淀君(よどぎみ)が亡父浅井長政(あざいながまさ)のために創建)、六月一日から八月二日まで大坂天王寺(てんのうじ)(聖徳太子の四天王寺)で開かれ、勧化金一万六一七〇両、開帳経費をのぞいて九八一四両を得た。
これを資金に、まず三門の造営がおこなわれた。三門造営工事は延享(えんきょう)二年(一七四五)八月、用材を刻みはじめる釿(なた)始めの儀式がおこなわれ、寛延二年(一七四九)二月地形(じぎょう)始め、同年六月上棟式(じょうとうしき)とすすみ、翌三年四月三日に落成し、四月八日入仏式がおこなわれて完成した(重要文化財)。造営総費用は三七八八両余であった。宝暦二年(一七五二)には仁王門が建てられた。これは弘化四年(一八四七)の善光寺地震で焼け、元治(げんじ)元年(一八六四)に再建されるが、明治二十四年(一八九一)にまた類焼し、現存するのは大正七年(一九一八)再建のものである。
仁王門についで経蔵が造営された。宝暦五年四月釿始め、同八年七月落成、宝暦九年三月十四日に安鎮式が営まれた(重要文化財)。総費用は一四九〇両余であった。
鎌倉時代にはこのほかに礼堂・観音堂・念仏堂・五重塔・曼陀羅(まんだら)堂・聖徳太子御影堂・釈迦涅槃(しゃかねはん)堂・鐘楼(しょうろう)等々が存在しており、これらの復元も善光寺の宿願であった。このうち鐘楼は嘉永六年(一八五三)に再建された。その銅鐘(どうしょう)は寛文七年(一六六七)の製作である(重要美術品)。
五重塔については、大勧進別当香雲(こううん)が安永八年(一七七九)寺社奉行所に出願し、同九年に回国開帳を始めたが、途上で天明二年(一七八二)病没した。別当等順(とうじゅん)が遺志をついで寛政六年(一七九四)から回国開帳を続行し、寛政十年に終えた。すでに設計図は、諏訪の高名な宮大工立川(たてかわ)和四郎富棟(とみむね)に頼み立派な図面が完成していた。しかし、寛政十三年、幕府寺社奉行所は五重塔造営の申請を「古礎(こそ)不分明」により不許可とした。新規の寺社造営は許さずというのは幕府の基本方針だったが、礎石も残っていなくて、五重塔を「新規にあらず復興なり」と納得させることができなかったのである。