元禄十三年(一七〇〇)の火災後に善光寺本堂再建をめざした出開帳(でがいちょう)は、大勧進慶運(戒善院)の主導ですすめられた。慶運は、元禄十四年の江戸谷中(やなか)感応寺での六〇日間開帳が予想外にふるわなかったため、すぐさま回国出開帳を企画する。まず同年五月、東叡山(とうえいざん)(寛永寺)の役僧に願書を出し、「今度御当地(江戸)で開帳をおこなったが、勧化(かんげ)金が少なく、これでは本堂建立ができない」と「日本回国勧化」を願いでて了解をとりつけた。ついで七月、寺社奉行所に出願し、老中評議による裁可を得た。
出開帳に必要な前立(まえだち)本尊、御印文(ごいんもん)、本田善光(ほんだよしみつ)等三卿像、御輿(みこし)、長持等々は江戸へきているので、早速同年九月に発足して上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)(千葉県および茨城県等)をまわった。しかし、この年や翌元禄十五年の勧化の記録はなく、回国の行程が知れる史料は、元禄十六年から同行した円乗院孝憲(こうけん)の筆記をもとにのちに書かれた記録しかない。それ以前の元禄十四年は上総・下総・安房など、十五年は関東筋としかわからない。十五年には東北の出羽(でわ)・陸奥(むつ)へも足をのばしたはずである。出開帳をおこなった行程が具体的に知られるのは、元禄十六年、同十七年(宝永元年)、宝永二年、同三年の四ヵ年分で、そのうち元禄十七年(宝永元年)の一ヵ年分の開帳地とその寺院を示すと表1のとおりである(『県史』⑦二〇四七)。
元禄十六年には、南関東の武蔵(むさし)(東京都・埼玉県)・相模(さがみ)(神奈川県)から東海道筋を西上して伊勢(三重県)にいたり、さらに畿内(きない)・近国をまわった。一三ヵ国、二八ヵ寺で開帳した。それぞれの開帳期間は、摂津(せっつ)大坂(大阪市)の丸一ヵ月を筆頭に、見こまれる参詣者数に応じ長短さまざまであった。河内小山(かわちこやま)(大阪府藤井寺市)の善光寺に九月十八日に着き、ここで翌年正月いっぱいまで越年した。なお、御印文は毎年、回国後いったん信州へもどされる。信濃善光寺で正月七日から十五日まで御印文頂戴の儀式があるためであろう。御印文(錦の袋入りの三種の宝印)を頭に押してもらうと極楽往生できるとの信仰から、出開帳先でも国元でも御印文を欠かせなかった。出開帳での御印文頂戴は銭一〇〇文だったという。
元禄十七年は三月に改元されて宝永元年になる。小山善光寺で二月一日から開帳したのを手はじめに、山陽道筋を中心に播磨(はりま)(兵庫県)から長門(ながと)(山口県)へとすすみ、海を渡って西海道の九州、さらに南海道の四国を一巡した(ただし、土佐・淡路には行っていない)。海路を使って京都八坂(やさか)(京都市)に十二月十六日にもどり、ここの庚申(こうしん)堂で二月まで越年した。開帳は二一ヵ国、五三ヵ寺と、請(こ)われて開帳した一個人宅におよぶ。
翌宝永二年には、京都庚申堂での二月十五日からの開帳に始まり、山陰道筋および山陽道の中国山地部分を西下し、転じて海路も用いて若狭(わかさ)(福井県)・越前(同)・美濃(みの)(岐阜県)・近江(おうみ)(滋賀県)をめぐり、十月七日近江坂本(滋賀県大津市)の大覚寺で越年した。一六ヵ国(ただし、うち三ヵ国は前年と重なる)、四三ヵ寺、請われて開帳した一個人宅におよぶ。最後の年の宝永三年には、近江大覚寺を皮きりに、北陸道筋諸国をまわり、越後から八月十六日に信濃善光寺へ帰着した。六ヵ国(ただし、近江・越前は前年と重なる)、二四ヵ寺で、このうち信徒の多い越後は一〇ヵ寺とていねいにまわっている。
このように元禄十六年から宝永三年までの四年間に、五〇ヵ国、一五一ヵ寺、二個人宅で開帳した。この途中では、予定どおりにいかない困難もあった。大井川などでは満水で足止めを食ったし、九州・四国へ渡る海路でも船留めにあった。また、宝永二年六月、但馬出石(たじまいずし)(兵庫県出石町)で桂昌院(けいしょういん)(将軍綱吉生母)の逝去服喪(ふくも)により、七日間開帳を遠慮するなどのことにも遭遇した。慶運一行は回国にあたりあらかじめ行く先々の寺院へ依頼状を送り、また道中の宿駅へ宿泊・休息や人馬用意の先触れを出しているはずだが、予定が狂うたびに変更になるむねを寺院への飛脚や宿駅への道中触れを出さなければならない。寺社奉行所への変更届けもそのつど在府の配下へ急送するなど、苦労が多かったにちがいない。
そのいっぽう、善光寺の回国御免勧化のことは幕府から全国の領主へ通達されているから、各地で領主役所から便宜を計らい供応するなどの「馳走」をうけることも少なくなかった。伊賀上野(いがうえの)宿(三重県上野市)では、領主の伊勢津藩主藤堂家から白米三〇俵・炭・薪などの寄進目録が届けられた。慶運は「大願(たいがん)」のゆえをもって受納しなかった。大願とはおそらく、無数の庶民の勧化による再建こそが本意だとの意であろう。しかし、藤堂家はその後、元禄十六年に死去した前藩主藤堂高久の遺志であるとして信州の善光寺如来あてに目録どおりに送ってきた。慶運はこれを善光寺の用途に用い、残り分は伊賀上野で開帳した西蓮寺へ送る。
回国出開帳に用いられた寺院を宗派別にみると、宗派を記す全一四五ヵ寺のうち、大本願と同じ浄土宗が八〇ヵ寺と過半数を占め、つぎは大勧進と同じ天台宗の一八ヵ寺である。一向宗(浄土真宗)一七ヵ寺、時宗一〇ヵ寺などが比較的多いのも善光寺とのかかわりの深さからうなずける。しかし、それ以外にも真言宗一一ヵ寺、禅宗七ヵ寺、日蓮宗二ヵ寺などがみられる。元禄元年に信州へきた芭蕉(ばしょう)が「月影や四門四宗もただひとつ」(『更科(さらしな)紀行』)と詠(よ)んだように、善光寺如来は宗派にとらわれずあまねく衆生(しゅじょう)を導き救いたまう仏として、善光寺がわにも、諸国の寺々にも認識されていたのである。
以上の元禄・宝永の各地の出開帳に、どれほどの人びとが参詣したのかは記録がない。これより前、元禄五年におこなわれた初の江戸出開帳については、回向院に出かけた戸田茂睡(もすい)が、参詣人が殺到し老人や女は仏前に近づくこともむずかしいありさまを書いている(『梨本書』)。また、諸国からの開帳参詣人が宿屋に泊まれず、大路にむしろを敷いて夜を明かす状況だったという(『都の手ぶり』)。元禄七年の京都真如堂と大坂四天王寺での開帳も、あまりの雑踏で近寄れないほどの盛況であった。のちの安永七年(一七七八)の江戸出開帳についても、平賀源内は「今年六月より、本所回向院において、信州善光寺如来の出開帳、参詣群集前代未聞のことは、人々知る処なれば、今更(いまさら)言ふもくだくだし」と書き(『菩提樹之弁(ぼだいじゅのべん)』)、蜀山人(しょくさんじん)(大田南畝(なんぽ))も「一国の人狂せしが如く参詣群参おびただし」と書いている(『半日閑話』)。両国橋の東がわにある回向院にたいし、橋の西がわの広小路には鬼娘などの見世物が並んで盛況をきわめたという(『善光寺史研究』)。江戸で開帳の四天王といわれたのは、信濃善光寺阿弥陀如来、京都嵯峨清涼寺(さがせいりょうじ)釈迦如来、甲斐身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)祖師像、下総成田(しもうさなりた)不動だったが(比留間尚『江戸の開帳』)、にぎわいの筆頭は善光寺出開帳であった。このような参詣人のおびただしい群参が、元禄・宝永の日本回国開帳でも各地でみられたと想定してよいであろう。
善光寺信仰は平安後期以降、鎌倉・室町時代から戦国時代へと全国的ひろがりを示したが、しかし、それでもまだ公家・武家層でない民衆レベルにおいては上層民の域を多くは出なかったと思われる。元禄・宝永の日本回国開帳は、善光寺信仰を全国津々浦々の庶民のなかにまで浸透させる結果をもたらした画期的なものであったといってよいであろう。
このあと安永七年(一七七八)から天明二年(一七八二)、寛政六年(一七九四)から同十年の三都・回国開帳も盛況であったが、享和三年(一八〇三)と文政三年(一八二〇)の江戸開帳は不振に終わった。出開帳がおこなわれるとそのあいだ信濃善光寺の参詣人は減少する。大勧進は天保六年(一八三五)、弘化三年(一八四六)にも出開帳を計画したが、三寺中(衆徒・中衆・妻戸(つまど))や門前諸町の反対で取り止めになった。