出開帳にたいして善光寺でなされる居(い)開帳は御回向(ごえこう)とよばれ、享保(きょうほう)十五年(一七三〇)が最初で、江戸時代に一六回おこなわれた。享保十五年の居開帳は常念仏二万日に達した機会の回向であった。常念仏は念仏堂(現在の城山小学校の位置)で日夜止むことなく念仏を唱えつづけるもので、中世にもあったが、近世には寛文年間(一六六一~七三)ごろ復興した。享保十五年の開帳はわずか七日間だったが、宝永の本堂落成のときいらいのにぎわいだった。つぎの開帳は三都出開帳が終了した寛保(かんぽう)二年(一七四二)で、ひと月半の開帳、三度目は本堂の修復が成就した延享二年(一七四五)で、二ヵ月間の開帳であった。
このように御回向(居開帳)は、出開帳が終わったとき、堂舎の造営・修理が成就したとき、常念仏が一万日とか五〇〇〇日の区切りに達したときなどにおこなわれた。江戸時代には享保十五年から幕末の元治(げんじ)二年(慶応元年、一八六五)までの一三六年間に、表2のように一六回開帳された。平均すれば八年余に一回になるが、近代の開帳のように定例的に七年目ごとに開かれるものではなかった(『善光寺史研究』)。
御回向もにぎわった。江戸後期に三寺中や門前町が出開帳に強く反対するようになったのも、御回向のにぎわいが収益をもたらしたからである。善光寺正信坊(しょうしんぼう)の嘉永元年(一八四八)から明治四年(一八七一)までの宿帳(『市誌研究ながの』一~二号)によると、このあいだに合計七四〇一人、一年平均三一〇人だったが、御回向のあった元治二年には一〇〇一人と飛びぬけて宿泊人が多かった。女性だけの、または女性グループにひとりだけ男が付き添う参詣団体が全参詣人の五〇パーセントを占めるという、女人禁制とはかかわりのない善光寺ならではの姿も知られる(同前書)。
開帳は門前町や三寺中の個々に収益をもたらしたが、むろん善光寺本堂にも散銭(さんせん)(賽銭(さいせん))や御印文(ごいんもん)頂戴などで多額の収入があった。安永二年(一七七三)の開帳は三月十五日から閏(うるう)三月二十九日までおこなわれ、この間の散銭・御印文などの収入が銭四〇二七貫文(同年の両替相場は金一両=銭五貫文余)、支出が五二〇貫文余で、差し引き純益が三五〇七貫文であった。これを折半して一七五三貫文を大勧進がとり、残りの一七五三貫文を三寺中四四院坊(二ヵ寺は空坊)で割り、三九貫八四八文ずつ配分している。本堂の収支がわかる開帳では、寛政十一年(一七九九)の純益五二二九貫文、院坊への配分五六貫四四一文ずつ、文政四年(一八二一)の院坊配分五七貫文ずつ、天保三年(一八三二)に院坊配分五四貫八〇〇文ずつなどが多い。弘化四年(一八四七)の善光寺地震からあと、善光寺参りは長く減少したが、そのため元治二年(一八六五)の開帳では純益一八八四貫文、院坊配分一八貫三〇九文ずつと落ちている(同前書)。
以上の出開帳や御回向(居開帳)のほかに、善光寺信仰の普及に大きく貢献したものに、大勧進別当等順(とうじゅん)の布教活動があった。等順は大門町美濃屋(坂口家)に生まれ、天明二年(一七八二)に大勧進別当になるが、天明三年の浅間山大焼けで多数の死者が出たのをみて、翌年から本堂で融通念仏血脈(ゆうずうねんぶつけちみゃく)の授与をはじめた。融通念仏を伝える代々の僧の系譜を木版印刷したもので、臨終のとき身につけていると極楽往生できるという。文化元年(一八〇四)に死去するまでに一八〇万人余に授与した。また各地に念仏講をおこした。等順筆の念仏名号を刻んだ碑が松本付近をはじめ四〇基余知られており、等順筆の名号軸も各地にある。名号碑や名号軸には女性だけの念仏講のものもみられる(同前書)。