善光寺信仰のひろがりにともない、善光寺に関する出版物が増大する。江戸前期にも善光寺縁起や霊験(れいげん)物の出版はあったが、これは中世に成立していた本が近世になって出版されたもので、ほとんどが京都での出版であった。善光寺縁起では、寛永年間(一六二四~四四)の『善光寺如来本地』、万治(まんじ)二年(一六五九)の『善光寺本地』、寛文(かんぶん)八年(一六六八)の『善光寺縁起』などがある。元禄五年(一六九二)には絵入り五巻本の『善光寺如来縁起』が京都の菱屋孫兵衛(ひしやまごべえ)から出版され、版を重ねた。のちにはこの縁起を要約した『善光寺如来略縁起』も出版される。なお、寛永十二年(一六三五)刊の「七人比丘尼(びくに)」(県立歴史館蔵)は、尼僧たちが善光寺に参詣し、越後関山(せきやま)(新潟県妙高村)の宝蔵院へ向かう姿を書いている。
京都での出版は江戸中後期にもつづき、菱屋孫兵衛は安永二年(一七七三)真宗大谷派の粟津義圭(あわずぎけい)の語った縁起『善光寺如来東漸録(とうぜんろく)』を出している。しかし、元文五年(一七四〇)や安永七年の江戸出開帳を契機に、江戸でも続々と出版されるようになり、縁起類のほか善光寺に関する黄表紙(きびょうし)・小咄(こばなし)などもつぎつぎに刊行された。黄表紙では、善光寺縁起や霊験、御利益(ごりやく)をわかりやすく書いたものが出版される。安永七年の江戸出開帳のときには、『善光寺御本尊伝来記』『本田善光(ほんだよしみつ)夢中御利益』『お花半七開帳利益札遊合(めぐりあい)』などが出版されている。また同年、地元善光寺町でも、『三国伝来善光寺如来日本結縁(けちえん)廻国御開帳寺々霊験記』が刊行された。善光寺大門町の蔦屋伴五郎(つたやばんごろう)は、寛政七年(一七九五)ごろ『善光寺如来縁起』の重版や略縁起の新刻出版をおこない、略縁起は弘化四年(一八四七)に三版を出した。善光寺にかかわる小咄は一七話知られていて、寺院関係ではトップで、第二の江戸浅草寺(せんそうじ)一〇話、第三位の京都清涼寺(せいりょうじ)六話を引きはなしている(『江戸の開帳』)。
古浄瑠璃(こじょうるり)では、『善光寺』『善光寺本地』『月蓋長者(がっかいちょうじゃ)』『善光寺堂供養』などの曲が出版されている。近松門左衛門はそれらを脚色して『善光寺御堂供養』を書き、享保三年(一七一八)大坂の竹本座で初上演した。のちに為永太郎兵衛(ためながたろうべえ)がこれを改作し、『本田善光日本鑑(やまとかがみ)』として元文五年大坂豊竹座(とよたけざ)で上演した。江戸歌舞伎では江戸出開帳にあわせて、元文五年に『阿弥陀池妹背鏡(あみだいけいもせかがみ)』、安永七年に『本田弥生女夫順礼(やよいめおとじゅんれい)』が上演されている(『善光寺史研究』)。