福島関所(木曽郡木曽福島町)の元禄七年(一六九四)から十年の女手形控帳(おんなてがたひかえちょう)が、最近襖(ふすま)の下張りから発見された(遠山高志「元禄期、女性の旅」ほか)。元禄七年分をみると、女手形全三二通のなかに、目的を「信州善光寺へ参詣」と記すものが一四通、善光寺参詣ののち江戸や奥州へとするものが三通ある。半分以上が善光寺参詣であった。手形一通に複数の女性を書くものが多いので実人数では五一人、住所は京都二四人、大坂二二人、播磨天王寺(はりまてんのうじ)村(兵庫県加古川(かこがわ)市)五人である。身元別では尼(あま)二二人、髪切(かみきり)一七人、一般の町民一二人であった。ただし、尼と書かれるなかには、寺や庵(あん)に住む正規の尼だけでなく、髪をおろしただけで町家(まちや)に住む女性、つまり髪切と同様に町民身分のものもふくまれている。元禄七年といえば、善光寺本堂再建の三都出開帳(でがいちょう)が京都真如堂(しんにょどう)(六月二十四日~八月三十日)・大坂天王寺(九月十六日~十一月十日)で開かれた年である。女手形の発行月は、播磨の一通をのぞけば、出開帳より早い三月から閏(うるう)五月であるが、出開帳を予告情報で知り、それに触発されての善光寺参詣が多かったとみて間違いないと思われる。三都出開帳、さらに元禄十四年からの日本回国出開帳は、善光寺参りの善男善女、ことに女性の参詣人を激増させる大きな契機となった。
善光寺信仰がひろがるにつれて、信濃国へくる道は、多かれ少なかれすべて善光寺道となる。
中山道洗馬(せば)宿(塩尻市)の道標には「右中山道 左北国脇往還 善光寺道」と刻まれている。洗馬宿で中山道から分かれた北国脇往還(北国西街道)は北上し、松本(松本市)や麻績(おみ)宿(東筑摩郡麻績村)、稲荷山(いなりやま)宿(千曲市)などをへて、篠ノ井追分(おいわけ)(篠ノ井)で北国街道に合流し善光寺へ向かう。稲荷山宿は寛政四年(一七九二)上田藩への尋答書に、「宝永四年(一七〇七)に善光寺が再建されてから、江戸表へ下向される公家がたをはじめ、諸大名やその隠居、若殿、姫君、奥女中衆、そのほか諸国の御家中(ごかちゅう)がたが善光寺参りにこの道を来られ、通行がひんぱんになった」と書いている(『市誌』③七章)。元禄・宝永の回国開帳と善光寺再建を契機に、濃尾平野以西の西日本から東へくる人びとが善光寺参りに盛んにこの道を利用するようになったのである。時期がくだるにつれ、善光寺参りは公家・武家層に限らず、多数の民衆もこの道を通った。このため北国西街道は善光寺道ともよばれるようになった。ちなみに、善光寺へのもっとも遠い道標として知られるのは、美作(みまさか)国津山(つやま)(岡山県津山市)のものである。町の東はずれの加茂川にかかる兼田(かねだ)橋のたもとに立ち、「信州善光寺百三十五里」とある。津山城と津山城下町を築いたのは、慶長八年(一六〇三)に松代から津山へ移封(いほう)した森忠政なので、森に随行してきた北信濃の人びとの子孫が建てたのかもしれない。この津山からきても、最後は北国西街道をたどるのが順路であった。
善光寺道とよんでよい道は、しかし、北国西街道に限らない。美濃国今尾(いまお)藩(岐阜県海津郡平田町)の豊田利忠は天保十四年(一八四三)、『善光寺道名所図会(ずえ)』を著した。この本は洗馬宿から北上して道沿いの史跡・伝承などを記しつつ善光寺にいたり、善光寺とその周辺も明細に記すが、ついで転じて今度は北国街道沿いに松代・矢代(千曲市)・坂木(坂城町)・上田・小諸などを描きつつ中山道追分宿(北佐久郡軽井沢町)にいたる。つまり豊田利忠にとって、善光寺と追分を結ぶ北国街道もまた、善光寺道にほかならなかった。じっさい、江戸をはじめ関東方面から西上して善光寺参りを果たそうとする人びとの多くは、中山道からこの北国街道に入って善光寺をめざした。
文政三年(一八二〇)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は江戸から甲府・下諏訪と甲州街道をきて塩尻峠をこえ、北国西街道を北上して善光寺にいたった。一九のこの旅の目的地にはいま一つ、草津湯(群馬県草津町)行きがあった。善光寺から草津湯への近道には、渋の湯(山ノ内町)から渋峠をこす草津道か、仁礼(にれ)(須坂市)を通る大笹(おおざさ)街道があるが、一九は前年大笹街道を歩いていたことから、北国街道を上田・小諸を通り追分宿にいたり、ここから大笹街道へ出て草津の湯へ向かった(『方言修行金草鞋(かねのわらじ) 善光寺草津道之記』)。文筆業者の読者受けをねらったコースだが、甲州街道をきて北国西街道と北国街道を善光寺道として歩いたことになる。なお、大笹街道も、上州(群馬県)がわでは善光寺道ともよばれ、北関東方面からの善光寺参りの道であった。
天保十五年三月、加賀藩宮腰(みやのこし)町(石川県金沢市)の女たちが、「信州善光寺・甲州身延山(みのぶさん)(山梨県身延町)へ参詣つかまつりたし」と願いでた。宮腰町奉行は上司に「越中境御関所の過書(かしょ)(通行手形)」の発給を申請している(『金沢市史』資料編8)。北陸路をきて親不知(おやしらず)・子不知(こしらず)の険を通り、越後高田(上越市)から北国街道に入って善光寺に参詣したと思われる。なお、ここから身延山へ行くには、北国街道の小諸付近から岩村田(佐久市)へ出、佐久甲州街道を通り、韮崎(にらさき)(山梨県韮崎市)から駿河(するが)(静岡県)への道を南下したであろう。これを逆に歩けば、駿河・甲斐方面からの善光寺道となる。
中世には京都の公家・僧侶らの善光寺詣でに北陸道がおもに用いられたが、近世にも日本海がわ諸国からの善光寺参りには北陸路から北国街道へというコースが利用された。中越(ちゅうえつ)・下越(かえつ)や出羽(でわ)(山形県・秋田県)方面からくる善光寺参りにも、高田から北国街道入りするものがいた。
越後からは信濃川沿いに十日町(新潟県十日町市)・飯山とくる道もあった。明和二年(一七六五)十日町の滝沢山之(さんし)は、娘さのやその女友達らを引きつれて伊勢参宮の旅に出た(『十日町市史』資料編5)。飯山で泊まり翌日善光寺へ着いた。善光寺に詣でて泊まったが、市村の渡し(芹田)が舟留めとなり、上流の小市(こいち)の渡し(安茂里)も渡れず善光寺へ引き返してもう一泊した。この先は北国西街道から伊那街道を南下し、清内路(せいないじ)(下伊那郡清内路村)で峠をこえて中山道へ出、伊勢をめざした。帰路は琵琶湖のほとりから北国街道に入って北陸を通ってきている。この旅では善光寺は通過地点だったが、善光寺参りを目的とする場合にも、十日町近辺はもとより中下越や出羽方面からもこのコースをきたものが少なくなかったと思われる。
北陸からきて糸魚川(いといがわ)(新潟県糸魚川市)で姫川沿いに信州へ入る糸魚川(千国(ちくに))街道も善光寺道とよばれ、千国(北安曇郡小谷(おたり)村)には「旧善光寺街道」と記す新しい道標が建てられている。糸魚川街道から折れて、土尻(どじり)川沿いや裾花(すそばな)川沿いの山道を善光寺へ向かった。糸魚川街道の途中から善光寺へ向かう道は、松本方面からの善光寺参りにも利用された。十返舎一九の『膝栗毛(ひざくりげ)』でも弥次・喜多両人がこの道を通っている(『善光寺史研究』)。
三河(愛知県)の岡崎(岡崎市)や吉田(豊橋市)・新城(しんしろ)(新城市)方面は、伊那(三州)街道筋の信州中馬(ちゅうま)のもっとも盛んな活動圏であったが、このあたりから善光寺詣でをするにも伊那街道が至便である。信州で最初の根羽(ねば)宿(根羽村)へ入ると、明和八年(一七七一)に建てられたりっぱな石の道標があり、「此方なごやみち」「此方ぜんこうじみち」と刻まれている。飯田(飯田市)・赤須上穂(あかずわぶ)(駒ヶ根市)・伊那部(いなべ)(伊那市)・小野(辰野町・塩尻市)など伊那街道を北上し、あとは北国西街道を通って善光寺へ向かった。また、信州から秋葉山(あきばさん)(静岡県春野町)への参詣に用いられた秋葉街道は、逆に遠江(とおとうみ)(静岡県)方面からの善光寺参りの道でもあった。飯田へ出て、以後は伊那街道を北上する。