善光寺講と院坊

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寛政六年(一七九四)佐久郡瀬戸村(佐久市)の僧即連(そくれん)は、村びとを善光寺講に勧誘した。「夏小麦・秋米一升ずつを出し合い、年々四人ずつ代参に立て、一人前銭一貫文ずつ相渡し、連中(れんちゅう)(講仲間)へ土産(みやげ)決して無用」という規定であった。村中全戸といってよい七〇人が講に加入した。早速その六年の秋、七斗の米を集めその代金二分三七七文を得た。翌七年正月、繁八・兵左衛門の二人に一貫文ずつを渡して善光寺参りに行かせている。その繰り越し金と七年に集めた米・小麦の代金が金一両と銭三貫三三〇文となり、八年には正月に三人、三月に三人と規定以上の人数へ各一貫文を渡して善光寺参りをさせている。瀬戸村の善光寺講はこうして軌道に乗った(『県史』②一一五六)。

 瀬戸村の僧即連が善光寺三寺中のどの院坊と組んでいたかは書かれていないが、おそらく佐久郡を持ち郡とする福生院(ふくしょういん)であろう。善光寺講は院坊のどれかと結び、善光寺参りの参詣や宿泊もその院坊でとりしきった。近世の三寺中は、慶長六年(一六〇一)の寺領割り目録(『市誌』⑬七一)で定められている衆徒(しゅと)(天台宗)二一、中衆(浄土宗)一五、妻戸(つまど)(時宗のち天台宗)一〇の計四六ヵ寺であるが、欠員が生じることもある。元文五年(一七四〇)に三寺中へ配当籾を分配したときには、衆徒が一九院、中衆が一四坊、妻戸が九坊であった。ただし、欠員の院坊も名目(株)は存続している(『県史』⑦四一二)。

 善光寺講の人びとは善光寺にきたとき、所属する院坊に、境内諸堂の順拝、本堂でのお籠(こも)り、お朝事(あさじ)などの参詣いっさいと、宿泊・食事などのすべてを依存する。院坊にとって、本堂分配金などもあるとはいえ、属する講からの志納金や宿泊代などの収益がもっとも大きかった。このため、道者(信徒)の奪い合いがおこりがちであった。貞享(じょうきょう)三年(一六八六)六月、大勧進住職は寺中に布達して、町などで客引きをして無理に誘引することを禁じた。しかし、このような傾向はいっそう甚だしくなったらしく、享保九年(一七二四)にまた、「他国の道者を客引きするため、五、七里四方の宿屋どもと示しあわせて院坊札(ふだ)を渡して誘導したり、門前諸町のものと結んで道者を案内させたりする」ことなどを咎(とが)めている(『善光寺史研究』)。


写真4 院坊の町並み  (元善町)

 このような道者の奪い合いをおさえ、諸国の檀那場(だんなば)を郡単位で院坊に割りあてる決定をしたのは、明和年間(一七六四~七二)であった。檀那場の郡割りをもっと早く、慶長年間(一五九六~一六一五)と伝える史料もあるが、そうであったにしても不徹底で推移し、明和年間ごろになると院坊による全国の郡の支配争いも飽和状態に達して一段落し、郡割りが確定できるようになったと考えられている(小林計一郎『長野市史考』)。この檀那場郡割りは以後も争いで乱されることがあったが、しかし、大筋では守られ、明治以降におよんでいる。明治十六年(一八八三)五月の「国中郡割り宿坊附」(『善光寺史研究』史料編50)は、旧国ごとに各郡々を持ち郡とする院坊を列記しており、本州・四国・九州の諸国はもとより佐渡・淡路・隠岐・壱岐・対馬などの国々におよんでいる(蝦夷(えぞ)・琉球(りゅうきゅう)はない)。この持ち郡は近世末期のものを踏襲しているとみてよい。

 このうち信濃国一〇郡(筑摩郡の木曽を分けて一一)の持ち郡は、筑摩(吉祥院)、伊那・埴科(蓮華(れんげ)院)、佐久・安曇・木曽(福生院)、小県(兄部(このこん)坊)、更級(白蓮(びゃくれん)坊)、水内(浄願坊)、諏訪(徳行(とくぎょう)坊)、高井(向仏坊)であった。

 浄願坊は明和年間いらい、水内郡を持ち郡としていたが、文化九年(一八一二)に持ち郡侵犯をこう訴えた。「水内郡は拙僧の持ち郡であるのに、信徒の永代御開帳、常夜灯の献灯その他の願い出にあたり、他の院坊が縁者などと申し立ててみだりに取次(とりつぎ)をするので、拙寺は存続しがたい」。水内郡からの常夜灯の寄進願いなどは当然に浄願坊が「取次」を勤め(現存する常夜灯にはみな「取次」が記されている)、相応の志納金を得るべきところを、他の院坊により侵されているというのである(『長野市史考』)。持ち郡といっても、積極的な保持策を講じていかなければ侵犯されかねない実情であることを示している。

 善光寺大地震の翌々年嘉永二年(一八四九)に、浄願坊は「水内郡永代(えいたい)御開帳講」への加入を郡中によびかけた(『県史』⑧一〇三七)。「弘化四年(一八四七)三月二十四日の地震大災にて町(まち)・在(ざい)・山中(さんちゅう)とも家潰(つぶ)れ、遠近の道俗・老若(ろうにゃく)男女圧死・焼死、あまつさえ四月十四日犀川押し出(いだ)し、流死の者おびただしく、まことに前代未聞(ぜんだいみもん)のありさま(中略)、よって横死人菩提(ぼだい)の儀はもちろん、銘々現当(げんとう)(現世と来世)二世安楽のため、毎月十四日に永代御開帳取り結びを発願(ほつがん)した。当水内郡町・在・山中有心の御方々の浄財喜捨(きしゃ)の御志を希(ねが)い奉る。もっとも、御取次の儀は浄願坊」などと記している。水内郡白鳥(しらとり)村(栄村)の有志はこれに応じて加入することを決め、浄願坊に取次を願いでた(『県史』⑧一〇三七)。

 このような積極的な活動は、院坊の持ち郡維持のためだったにせよ、院坊が互いにせりあって活動を展開することにより、全国的に善光寺信徒をひろげ、善光寺講の拡充をもたらしたと思われる。

 江戸時代の講の分布の全容はわからないが、善光寺祠堂金(しどうきん)へ寄進したもののなかに、江戸に江戸講・江戸御供講・御花講・江戸谷中(やなか)念仏講・神田蝋燭(ろうそく)講・本所(ほんじょ)念仏講・深川(ふかがわ)念仏講・江戸御伽羅(きゃら)講・江戸五種香講・江戸抹香(まっこう)講・江戸御高盛講・江戸本所女人(ほんじょにょにん)講・江戸神田女人講など、大坂に天満(てんま)念仏講、中山道洗馬宿に念仏講などがみられる。念仏講・女人講などのほか、花・蝋燭・伽羅・香など特定品の仏前奉納を目的とする講が存在していた。長養院は、善光寺大地震で焼失したあと、持ち郡の下総香取(しもうさかとり)郡(千葉県)、讃岐(さぬき)豊田郡(香川県)などから宿坊再建の奉加金を集めている(『長野市史考』)。善光寺講は明治以降、とくに鉄道開通後、いっそう拡大する。