善光寺の参詣人を宿泊させる施設には、院坊のほかに、旅籠屋(はたごや)と木賃宿(きちんやど)があった。旅籠屋は北国街道の宿駅である大門町(だいもんちょう)に存在した。
文政十年(一八二七)に刊行された『諸国道中商人鑑(どうちゅうあきうどかがみ) 中仙道善光寺 全』には、この案内書の刊行に賛助金(広告代)を出した宿屋・商店などが記載されているが、大門町の「御休泊所」「御とまり宿」として左の諸家が掲げられている(読みくだしにあらためる。目印(めじるし)の家紋(かもん)略)。絵入りのものと文字だけのもの、一ページ大、一ページの半分、三分の一などがあるが、賛助金の多少によろう。
ふぢや平左衛門(絵入り、図1)ふぢやかず/\御座候間、京都・江戸よりハ左りかハ、越後よりハ右かハ、ひしの目印と御尋ね下さるべく候、
いけだや沖右衛門 問屋前左りがハと御尋ね、御参詣の儀ハ何事によらず御世話仕(つかまつ)り候、
ゑどや茂左衛門 御参詣の御方、右側と御尋ね下さるべく候、
つちや弥平 御参詣に左りがハ 如来様へ御参詣の儀ハ申すに及ばず、御けちみゃく(血脈)その外何事ニよらず取次御世話申し上げ候、
げんきんや孫兵衛 御参詣に左りがハと御尋ね下さるべく候、
わたや仁左衛門(絵入り) 二(仁)王門東かハより三軒目
しなのや千左衛門 右がハひやうたん(瓢箪)目印と御尋ね下さるべく候、
あふぎや金四郎 御参詣にひだりかハ
問屋・検断の小野善兵衛(絵入り)と本陣の藤屋平五郎(絵入り)も掲載されていて、小野家には「諸士様方御宿仕り候」、藤屋には「きざ橋より四軒目 御さんけい右がハ、御本陣と御尋ね下さるべく候」とある。また、堺屋(さかいや)嘉右衛門は「地綿卸(じわたおろし)・小売、蚊屋(帳)(かや)類卸」の商家、池田屋六右衛門は加賀笠問屋と地綿卸・小売の商家だが、それぞれ「諸国商人定宿(じょうやど)」を兼ねていた。ついでながら大門町には商家も入りまじっている。『商人鑑』によれば、呉服(ごふく)・太物(ふともの)卸、小間物問屋、刀工、二八(にはち)そば・お茶漬、薬種・家伝朱鳥油、御袈裟(けさ)、酒造、古道具、即席料理、山本流手蹟(しゅせき)稽古所・小笠原流躾方(しつけかた)指南所、入れ歯療治所・丸散丹円膏売弘(こううりひろめ)所など、多彩であった。
旅籠屋は、御参詣の右がわ・左がわとあるように、大門町の東西両がわに並んでいた。この『商人鑑』に広告を載せなかった旅籠屋もむろん多数存在した。慶応四年(明治元年、一八六八)三月に戊辰(ぼしん)戦争出陣の加賀藩一行が善光寺町に宿泊したときには、大門町だけで足りず、東町・東之門町にも宿泊しているが、大門町分では本陣を別として五十数軒に分宿している(『県史』⑦二〇二三)。ただし、これは旅籠屋以外の商家まで動員された数かもしれない。近世後期にはおおむね三〇軒ほどだったという(『長野市史考』)。
前述の『商人鑑』の池田屋には「御参詣の儀は何事によらず御世話」とあり、槌屋(つちや)には「如来様へ御参詣の儀は申すに及ばず、その外何事によらず取次御世話」とある。このように旅籠屋は本堂お籠(こも)りをはじめ、血脈(けちみゃく)・御印文(ごいんもん)頂戴など、院坊の権益に障るような世話までしていた。天保六年(一八三五)に善光寺の出開帳計画に反対した大門町は、「当町の者どもは平日参詣人を止宿させ、さらに血脈世話料などにより存続している。いま回国出開帳がなされては、居ながらに如来を拝し血脈・御印文を頂戴できるから、当山参詣人は皆無となり、旅籠屋は潰(つぶ)れるほかない」と、血脈・御印文の世話などを公然の仕事として書いている。また、旅籠屋で御影(善光寺如来像)を売ったり、本堂お籠りに必要な切手(証明書)を発行したりもしている(同前書)。
三寺中の院坊にとって、旅籠屋は強力な競合相手であり、押され気味であった。享保十一年(一七二六)四月、大門町の旅籠屋は連名で、善光寺役所へ願書を差しだした。「大門町の御伝馬役(おてんまやく)は、往来・参詣人の宿賃の助成により勤めているが、本堂再建いらいみだりに宿屋稼業をするものがあらわれ、正徳四年(一七一四)に旅宿停止(ちょうじ)令を出していただいた。ところが、近年またおびただしく宿屋稼業が増し、大門町の宿泊はなく難儀至極、身命を送りがたい窮状にある。惣(そう)じて旅宿は堅く御停止(ちょうじ)いただきたい」。これはつぎにみる他町の宿屋営業も対象とするものの、むしろ院坊の宿屋まがいの営業を排撃するものであった。その後も再度訴状を出し、女人御法度(ごはっと)の天台宗(衆徒)の院坊が女衆まで泊めているのはなぜか、などと弱みをついている。院坊と大門町旅籠屋との争いは、天保元年(一八三〇)にも再燃した。院坊からの客引き人が毎日町方へ二、三人出ており、「御山内(院坊)へ泊まれば御本堂内陣に入れて残らず拝礼できるが、旅籠屋では内陣へ入れない」などといって、宿札(やどふだ)を渡して勧誘していることが発覚し、怒った大門町旅籠屋が訴えた争いであった(同前書)。
善光寺役所としては、三寺中院坊のもつ権益を制限するわけにはいかず、いっぽう、大門町がわが北国街道宿駅の衰微を楯(たて)に主張するのをむげに抑えることもできず、また御回向(ごえこう)(居開帳)のときなどに院坊だけでは宿泊人を収容しきれない実態だったりするため、争いのつど調停妥結に苦労した。
大門町旅籠屋仲間にとって、いまひとつ営業の足元をおびやかすものに、ほかの町々での宿屋稼業の増加という問題があった。旅籠賃にこと欠くような貧しい参詣人が善光寺には殊に多かった。善光寺平各地から所用で町へきたときにも、なるべく安い宿に泊まろうとする。これらを目当てとする宿屋が東之門町などにできていた。享保十一年(一七二六)、東之門町の六人が大門町からもぐりで旅籠稼ぎをしていると訴えられている。そのうち三人は「川東(高井郡方面)へ毎年綿打ち稼ぎに出かけているうちに知り合いが多くなり、この人たちが参詣にきたとき宿を貸してやった」と述べている。在郷商いで知り合ったものに頼まれて客を泊めたようなところから、旅籠稼業をはじめたものがいたのであろう。
寛政三年(一七九一)の御回向中、参詣人が多かったため大門町以外で止宿させたものが多数いて、大門町からの訴えで町々の止宿は差し止められた。これにたいして東之門町は難渋を訴えつづけた。嘉永二年(一八四九)正月、東之門町はきびしい条件の範囲での営業を認められ、大門町の本陣・問屋・宿年寄にたいし請書(うけしょ)を差しだした(『県史』⑦二〇一八)。①旅籠屋同然の家作や掛行灯(かけあんどん)はしない。②近在村々の旅籠泊まりのものは大門町へ回す。③他国者は巡礼(じゅんれい)以外止宿させない。④客引きや宿札の発行はしない。⑤長逗留させてはならない。⑥他町村へ出向いて止宿を約束させることはしない、などの条件であった。これらに違背した場合は止宿を禁じるとされた。東之門町の二六軒(うち二軒休業中)の営業人と組頭・庄屋が連判している。
旅籠屋同然の稼業はせず、巡礼などだけを泊めるとなると、安宿で自炊(じすい)もさせるいわゆる木賃宿(きちんやど)になるが、東之門町に当時二六軒の木賃宿が存在していたわけである。東之門町のほかにも東町・西之門町などで、御回向の期間中などにもぐりの木賃宿稼業がおこなわれたらしい。いずれにせよ、ひと目で知れるような旅籠屋同然の家作は厳禁だったから、ごくふつうの民家への宿泊で、いわばこんにちの民宿のはしりだったともいえる。