大門町旅籠屋の強力な商売がたきに、権堂村(鶴賀権堂町)の水茶屋(みずちゃや)(遊女屋)があった。権堂村は江戸前期の一時期、尾張支藩松平義行領になったが、あとは幕府領で一貫し、後期には松代藩御預かり所になる。現在の権堂町は中央通りと長野大通りを東西に結ぶアーケード通り(相生(あいおい)町)中心だが、これは大正二年(一九一三)に開かれたものである。近世の権堂村で町並みになったのは、東町から南下する表(おもて)権堂と、これと並行して現在は千歳町につながっている裏(うら)権堂の、二本の南北の通りであった。その表権堂通りに水茶屋がだんだん多くなり、裏権堂通りは弘化四年(一八四七)の善光寺地震後に最初から水茶屋ばかりの町並みとして発達した(『権堂町史』)。
前記した文政十年刊の『諸国道中商人鑑(あきうどかがみ)』には、権堂町の水茶屋として山城屋、駒田屋喜太郎、ふぢや祐三郎、中島屋兵左衛門、みつさゝや権蔵、橋本忠兵衛(図2)、ゑびすや伝十郎、白木屋宗兵衛、広田屋仁兵衛、きの国屋卯八、林屋八右衛門、中屋和兵衛の一二軒が広告を載せている。このうち八軒は、絵入り、一ページ大の大広告で、描かれている建物は総二階、瓦葺き、畳敷きという、善光寺町で当時まだ少なかった豪勢なものである。
善光寺町続きの権堂村には、元禄十三年(一七〇〇)の善光寺・門前の火災のころから水茶屋がつくられ、町並みができはじめたらしい。門前諸町が手狭なのにたいし手広に家作できる権堂村は有利であった(『県史』⑦一四一三)。宝暦元年(一七五一)の一四七八軒を焼失した善光寺町大火のとき、権堂の水茶屋も類焼した。その見分にきた中之条代官浅岡彦四郎に麦兵衛(のち喜兵衛)が駕籠訴(かごそ)し、水茶屋七軒の許可を得た。麦兵衛は越後から二、三十人の女をよびよせ、水茶屋営業を望む一一軒に女を預け、夜具・敷団を高値で貸しつけたという。一軒あたり二、三人程度だから、まだ規模は小さかった(『権堂町史』)。
文化元年(一八〇四)に権堂村役人は、「近年茶屋はしだいに増長し、御法度(ごはっと)にそむくような営業ぶりで、村役人が注意しても一向に守らない」と中之条代官所へ訴えた。相手の水茶屋は一四軒であった。その後水茶屋は文政十二年(一八二九)に三〇軒に増え、天保二年(一八三一)に抱え女が二三八人にのぼった。同十五年に水茶屋は三四軒になる。これ以上の開業は禁じられ、以後水茶屋は三四軒、ここから遊女をよんで遊興させる揚(あげ)茶屋一一軒となり、茶屋営業権(株)が売買されるが、数は固定した(同前書)。
善光寺地震の翌年の嘉永元年(一八四八)、善光寺一五ヵ町と権堂村とのあいだに大争論がおこった。同年から翌二年にかけ、大門町惣代が権堂村役人に茶屋禁止を再三申しいれたが埒(らち)が明かず、二年六月以降大門町惣代は善光寺役所の許可なしに出府し、幕府の要路へ幾度も駆訴(かけそ)(駆け込み訴え)をおこなった。この間、大門町は善光寺役所へ出府許可を働きかけた。いっぽう、松代藩預かりの権堂村は、松代藩を動かして善光寺の出府許可を阻止しようとした。ついに松代藩の役人が善光寺領に踏みこんで各町惣代を召し捕り、善光寺はこれに猛反発するという事態に発展した。このなかで善光寺は町人惣代の出訴を許可する(『県史』⑦一二五五)。
嘉永三年六月、善光寺町は善光寺役所の添簡(そえかん)を得て正式に寺社奉行所へ出訴した。「旅籠屋ならびに小前惣代」として大門町年寄二人が訴訟人となり、権堂村の「百姓にて売女屋渡世」の三四人を訴えた。「売女屋は百姓をまったくやめ、多数の女を抱え、もってのほか驕奢(きょうしゃ)増長し、旅人を宿泊させ、馬子(まご)・人足を酒色に溺れさせており、当町は衰微して御伝馬御用を勤めかねている。売女屋を廃業させ、もとの百姓にもどしてほしい」とする訴えである。これにたいして権堂村がわも反論したが、その後追手風(おいてかぜ)喜太郎という相撲年寄に扱い人を頼み、大門町惣代へ和解を申しいれた。いきさつの末、同年十二月、和解の済口(すみくち)証文を寺社奉行所へ提出した。証文はつぎのように定めている。①茶屋は廃業すべきだが、暮らしの立てようがないから当面差し置き、追いおい本業の百姓にもどる。②給仕女は減らしていく。③旅人・商人・参詣人などすべて、権堂村には決して宿泊させない。④善光寺町のものには、たとえ給仕女を望まれても決して遊興させない。⑤善光寺町に止宿する旅人・商人・参詣人が逗留(とうりゅう)中に権堂へ出向いて酒食するのはかまわない。⑥権堂村で農間稼ぎに揚酒(あげざけ)(小売酒屋・居酒屋)・水茶屋ができるのは、善光寺宿があってこそなので、宿駅助成として年々金三〇両ずつを出金する(同前史料)。
善光寺一五町と権堂村との争訴といっても、内情は大門町の旅籠屋と権堂水茶屋との争いで、善光寺町がわも権堂村がわも一致結束していたわけではなかった。その結果である済口証文も、あまり実効性はなく、このあとも権堂水茶屋の営業はつづいた。伊勢神宮をはじめ有名寺社の近くに生じた「精進(しょうじん)落とし」の花街と共通している。なお、松代藩も善光寺役所も、領民の水茶屋遊びは抑え、花街での遊興を諸国参詣人・旅人に限らせようとした。