戸隠山神領の山内構成

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慶長十七年(一六一二)五月、徳川家康の寄進により戸隠山神領一〇〇〇石が成立し、神領は別当(べっとう)分五〇〇石、社僧分三〇〇石、社家(しゃけ)分二〇〇石と配分された。神領のうち八〇石は現長野市域の栗田村(芹田(せりた))、他の三ヵ村は現戸隠村内である。別当は戸隠山神領の領主で、戸隠一山を統治し、大坊とか本坊とよばれ、のち勧修院(かんじゅいん)と称する。社僧分三〇〇石は、戸隠三院のうち本院(奥院)一二坊のみに分配された。社家分は古くから火之御子(ひのみこ)社に仕えてきた神官栗田氏への配分である(『市誌』③一章四節二項)。


写真5 戸隠一山を統治した勧修院(現久山家)
  (『戸隠信仰の歴史』)

 同じ慶長十七年五月、家康は戸隠山法度(はっと)を下し、戸隠山(顕光寺)を天台宗寺院として位置づけた。戸隠山を神領とし神社として崇(あが)めるいっぽう、一山を別当を支配者とする天台宗寺院組織にあらため、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の支配下におくという神仏習合(しゅうごう)の形態である。平安末期以降、戸隠山は山門(さんもん)(延暦寺)の傘下に属していたが(『市誌』②一章一節)、そのことがあらためて確定された。ついで幕府が東国の天台宗統制を川越(埼玉県川越市)喜多院の天海(てんかい)にゆだね、天海は寛永二年(一六二五)江戸上野に東叡山(とうえいざん)寛永寺を創始したので、以後戸隠は直接には東叡山の支配のもとにおかれる。寛永十年二月、天海は山門三院執行探題大僧正の名によって、「越後・信濃両国天台宗法度条々」をくだし、寛永寺の直末(じきまつ)とした。この法度が越後・信濃両国天台宗にあてられているのは、ときの戸隠山別当俊海(しゅんかい)が両国の天台宗触頭(ふれがしら)に任じられたからである。俊海は天海の弟子といわれ、越後関山(新潟県妙高村)宝蔵院などの別当を兼帯していた。

 戸隠山の別当は山門から派遣されるのが原則で、僧侶の子弟などが京都の公家の猶子(ゆうし)(養子)となって戸隠に入る例が多い。別当の補佐役である院代(いんだい)は東叡山から派遣されることが多く、三院衆徒関係や領内の民政を統括した。民政を主管する代官は、上野村(戸隠村)に陣屋をおき、年貢収納や訴訟・治安などにあたった。別に山奉行がおかれて広大な山林を管轄した。また、三院衆徒を代表する年行事(ねんぎょうじ)がおかれ、三院衆徒の総意を代表して本坊とのあいだに立って諸事を処理した。

 別当・院代などが外から乗りこんできたのにたいして、三院衆徒は中世いらいの在地勢力である。三院については次項に記す。神領の百姓は、村方(むらかた)百姓と門前(もんぜん)百姓からなりたっていた。村方百姓は神領配分をうけた別当・社家・奥院衆徒の知行地を耕作し、年貢・諸役を負担する。他領の村々と同様に、村役人として庄屋・長百姓・組頭がおかれ、村の自治的運営にあたった。代官支配をうける。なお、戸隠山神領の表高(おもてだか)(拝領高)一〇〇〇石は変わらないが、新田開発がすすんで、天保四年(一八三三)には領内四ヵ村計一六二八石余にのぼった。新田高二八八石余(村方百姓所持)、境内新田除地(じょち)三四〇石余(門前百姓耕作)がふくまれている。

 門前百姓は中院・宝光院の門前に住み、新田も耕作しているけれども、本来的には中院門前のものは境内(神領の山全体)の竹および竹の子の採取と商売を免許され、宝光院門前のものは境内の薪(たきぎ)の伐採・販売や炭焼きなどを免許されて、それぞれを生業とした人びとである。権益の半面で、境内雑役と伝馬役(てんまやく)を負っている。両門前百姓は村方百姓とは別に庄屋・惣代・組頭をおき、別当の直接支配下にあった。また、それとは別に、中院門前には大工・木挽(こびき)・桶屋(おけや)などの職人仲間が住み、大工棟梁(とうりょう)の差配をうけ、自用の木材を境内山林から伐採することができ、運上金を納めた。両門前百姓と職人仲間にそれぞれ許された権益は、他のものがこれを侵害することを禁じられた。したがって村方百姓は、耕作・年貢上納に必要な範囲での入会(いりあい)草山の利用は認められていたものの、奥山に入りこみ竹・竹の子や材木を採取することは禁じられていた(『戸隠信仰の歴史』)。