三院衆徒の推移

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本院(奥院)・中院・宝光院の三院は鎌倉中期には整備されていた。三院の住僧の宗教活動は、鎌倉時代の大般若経(だいはんにゃきょう)の修理・戸隠版妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の開版(かいはん)(木版印刷)、法灯を守る灯明(とうみょう)奉仕、室町時代の戸隠版の修復・拡大、長禄(ちょうろく)二年(一四五八)の『戸隠山顕光寺流記(るき)』の編述等々、多岐にわたって展開された。しかし、中世の戸隠では、戸隠信仰を布教する先達(せんだつ)職や御師(おし)組織は発達しなかった。戸隠信仰は善光寺参詣とセットで流布し、善光寺聖(ひじり)や善光寺宿坊(しゅくぼう)が担い手となっていたと考えられている(『戸隠信仰の歴史』)。いっぽう、慶長十七年の戸隠山神領寄進のさい、社僧分三〇〇石の分配が奥院衆徒のみを対象とした点は、奥院衆徒がもっぱら神役勤仕に従事していたのにたいし、中院・宝光院の衆徒はすでに御師としての活動をおこない、多くの霞(かすみ)(檀那場(だんなば))をもち、その霞回りや檀那の戸隠参詣からの収益があったためとみられている(『戸隠 総合学術調査報告』)。

 そうであれば、中院・宝光院衆徒の御師活動は、戦国末期から本格化したのであろう。川中島合戦当時の戸隠は、武田・上杉の争奪戦のまととなり、信玄(しんげん)により社殿を破壊されたり、衆徒らが筏ヶ峰(いかだがみね)(小川村)や越後府中(ふちゅう)(上越市)に避難したりと散々な目にあうが、天正(てんしょう)十年(一五八二)の武田滅亡後、上杉景勝(かげかつ)の支配下に属し、とくに文禄(ぶんろく)二年(一五九三)景勝が朝鮮出兵から無事帰国したのを機に、社殿が再建され社領をあたえられて急速に復興した。御師としての活動は、この戸隠再興資金の募金活動のなかではじまり定着してきたのではないかと思われる。戸隠の檀那数が信濃についで越後に格段に多いのも、当時、上杉氏のうしろだてがあり、戸隠信仰の拠点が越後府中や関山にあったことに由来していると考えられる。

 戸隠信仰がひろがるにつれ、参詣者が増してくる。別当見雄(けんゆう)は元禄十一年(一六九八)、慣行を改廃して戸隠山年中行事掟(おきて)を定め、同十四年三院年中行事を定めるとともに、同年六月両界山(りょうかいざん)参詣掟を定めた。両界山(金剛界(こんごうかい)・胎蔵(たいぞう)界)はここでは戸隠山をさす。この参詣規定では、参詣者の戸隠山入りを六月十五日から七月二十日までと限り、入山するさいの潔斎(けっさい)、山関札(やませきふだ)(関銭(せきせん)納付と引き換えに発行する入山免許手形)、関札をあらためる関所(三ヵ所、本坊役人があらためる)、山先達(やませんだつ)などのことを決めている。山先達とは、三院参詣と山上登拝の案内者だが、これは三院衆徒が勤め、参詣人から銭一〇文をとり、三院のどこに泊まったものでも三院ぜんぶへ参詣させ、山上へ先達するとされている。このような参詣規定が整備された背景には、衆徒らの御師としての広域活動により参詣者が増大し、そのため衆徒間の争いも生じてきたという事実があったにちがいない。なお、元禄十二年、三院衆徒は東叡山の許可を得て、それまでの坊名をあらため、すべて何々院と院号を称するようになった。

 正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)、奥院衆徒は冬季の厳寒をいとい、ときの別当公栄(こうえい)に願って中院または宝光院に里坊屋敷(さとぼうやしき)をあたえられ、冬季は勤役中を除いて里坊に居住するようになった。つぎの別当乗因(じょういん)は復古改革をこころざす立場から、古法違反だと里坊居住を禁じたが、奥院衆徒は結束して対抗し、乗因も妥協して正月の修正会(しゅしょうえ)三日間と四月から九月までは奥院居住、他は里坊居住を認めるとした。奥院衆徒はこのとき理由のひとつに、里坊でないと檀那参詣のさい供応ができないことをあげている。つまり、このころまでに、奥院衆徒も檀那をもち、その参詣・宿泊など御師としての活動をおこなっていたのであり、むしろそれこそが里坊居住を求めた中心的理由だったと思われる。

 ところで、戸隠一山には、さまざまの紛争が生じた。外来派の本坊と在地派三院のあいだ、知行地配分をうけた奥院とうけない中院・宝光院のあいだ、本坊・三院と神官栗田氏のあいだ、本坊がおかれていてこれと親近性の強い中院と疎遠な宝光院のあいだなどの諸紛争である。一例だが、元文(げんぶん)年間(一七三六~四一)には、修験道(しゅげんどう)古法の復活をめざす別当乗因を、すでに天台宗規法になじんでいる三院衆徒が排撃し、寛永寺に訴える事件がおこった。寛永寺は召喚状を出しても乗因が応じないため、門主名をもって幕府寺社奉行に扱わせた。寺社奉行大岡越前守忠相(えちぜんのかみただすけ)は、門主の下知(げち)にそむいた罪により乗因に三宅(みやけ)島遠島を命じた。

 数ある山内紛争のなかでも、戸隠一山を揺るがせた最大の事件は雪舟(そり)一件であった。事件の発端は安永九年(一七八〇)三月、宝光院衆徒のひとりが、中院門前百姓から買いとった薪を雪舟に乗せ、中院にある本坊勧修院の前を引いて通り、これを中院衆徒が差しとめたという、一見些細(ささい)なできごとであった。中院は雪舟引きは古来中院のみに許された権利だと主張し、宝光院は天下の往来だと真っ向から反論した。社家栗田大膳(だいぜん)らの内済調停は不調に終わり別当裁定にもちこまれたが、別当の裁決は宝光院のみをきびしく処断するものであった。宝光院一七院衆徒は、この別当裁決申し渡しの中途で席を蹴って退出し、東叡山への越訴(おっそ)を決意し、寺檀(じだん)帳・御札版木(おふだはんぎ)・什器(じゅうき)・戸障子等々のいっさいをもって戸隠山を退転(たいてん)した。

 宝光院衆徒は善光寺にいて、惣代を送り東叡山に訴えたが、すげない対応をうけたため、天明元年(一七八一)幕府寺社奉行所へ訴えでた。寺社奉行所は中院・宝光院の惣代をよびだして対決させ、なぜ雪舟程度でさほどに問題になるかなど微細にわたり吟味した。けっきょく宝光院衆徒が領主の別当の申し渡しの途中で退席したことが吟味の焦点となり、善光寺に待機していた宝光院衆徒全員に出頭を命じた。天明二年五月、寺社奉行は関係者を白州(しらす)に集めて裁決をくだした。中院と別当・社家はまったくお構いなしとされ、宝光院衆徒は全員、別当裁決を聞かず離山した不届きの咎(とが)により中追放(ちゅうついほう)を命じられた。武蔵(むさし)・山城(やましろ)・大和(やまと)・和泉(いずみ)・摂津(せっつ)・肥前(ひぜん)・木曽路(中山道)筋・甲斐(かい)・駿河(するが)・東海道筋・下野(しもつけ)・日光街道・信濃への立ち入り禁止である。

 別当は無住となった宝光院に中院の二四院から一二院を分けて転住させた。この結果、三院はそれぞれ一二院をもって構成され、計三六院に再編成された。この三六院は以後、江戸時代を通じて動かず、近代にいたる。なお、三院衆徒は妻帯しないから世襲相続はありえない。家督の跡式(あとしき)は、弟子のなかから三院それぞれの惣衆徒が推挙し、別当が認可する。弟子がいないか若輩の場合は、他から適任者を推挙した(以上、『戸隠 総合学術調査報告』、『戸隠信仰の歴史』)。