飯縄信仰と千日大夫

303 ~ 305

飯縄山(いいずなさん)は中世後半に戸隠顕光寺の支配から脱するとともに、「飯縄の法」とよばれた妖術(ようじゅつ)めいた独自の修法(しゅほう)を編みだした。飯縄権現(飯縄明神)は狐に乗り、背に翼をもち、火炎を負った姿であらわされる。これが戦勝を願う武士の関心を引きつけ、軍神として戦国武将らの熱狂的な支持を得た。上杉謙信(けんしん)と武田信玄(しんげん)はその代表格である。信玄は戦勝を祈念して飯縄明神に願文(がんもん)を捧げたり飯縄本尊と「飯縄法次第」を身につけたりし、謙信は愛用の兜(かぶと)の前立(まえだて)に飯縄明神像を付けたり朱印の文字に用いたりした(『市誌』②三章四節、小林計一郎「飯縄信仰の変遷」)。

 南北朝時代の応安(おうあん)二年(正平(しょうへい)二十四年、一三六九)作製の「飯縄山地蔵菩薩(ぼさつ)」像に「千日大夫(せんにちたいふ)」の銘がある(『信史』⑥五〇五~六頁)。地蔵菩薩は飯縄の本地仏(ほんじぶつ)である。これを初見とし、これ以前から存在したと考えられる千日大夫は、代々世襲の在俗の修験者(しゅげんじゃ)で、飯縄一山を統率し、各地で活躍した飯縄使(つかい)とよばれた行者(ぎょうじゃ)を配下においた。弘治(こうじ)三年(一五五七)三月、この地を手にいれた信玄は「飯縄之千日」あてに飯縄山の所務を安堵(あんど)し、元亀(げんき)元年(一五七〇)九月「飯縄大明神御社領」として千日次郎大夫あてに旧来の四七貫文に新寄進一九貫八〇〇文を加えて寄進した(『信史』⑬三九一~三九二頁)。

 武田勝頼(かつより)は天正(てんしょう)六年(一五七八)、千日次郎大夫の養孫に「仁科甚十郎(にしなじんじゅうろう)」の名をあたえた(『信史』⑭一五七八頁)。「仁科氏系図」によると、安曇郡の名族仁科盛政が信玄に殺されたあと、その嫡子(ちゃくし)盛孝、二子盛清は逃れて千日次郎大夫を頼り、次郎大夫は信玄に願って盛孝を自分の後継ぎとし、さらに盛清がそのあとを継いだという(小林計一郎前掲論文)。天正八年閏(うるう)三月、勝頼は千日大夫に信玄寄進の飯縄神領を安堵し、また「本山御遷宮(ごせんぐう)」のため還住(げんじゅう)させた百姓一七人の普請役を免除して本宮修造に勤仕させるよう命じた(『信史』⑭五〇六~五〇七頁)。


図3 飯縄の里宮・奥の院と仁科氏の屋敷(右下)
  (『善光寺道名所図会』)

 武田滅亡後の天正十年十一月、上杉景勝は千日次郎大夫にたいし、上野(戸隠村)をはじめ小鍋(こなべ)(小田切)、千田(せんだ)・市村(芹田(せりた))、大宮入山(いりやま)・広瀬(芋井)のうち五一貫三〇〇文と、芋井のうち表平(おもてだいら)・梨窪山(なしくぼやま)北谷を寄進した(『信史』⑮五二一頁)。このようにして、領主がかわっても飯縄神領が寄進され、千日次郎大夫(仁科甚十郎)が支配するという姿が戦国末期に確立した(図3)。

 軍神として武将たちの尊崇(そんすう)を集めた以上の戦国時代こそ、飯縄信仰の最盛期であったといってよいであろう。