関ヶ原戦後の慶長五年(一六〇〇)十二月、海津(かいず)城主森忠政は千日次郎大夫にあてて、「飯縄社領として新(荒)安(あらやす)村社人居屋敷近辺において三十石」を寄進した(『信史』⑱五四五頁)。森忠政にかわった家康六男松平忠輝を補佐した幕府代官頭(がしら)の大久保長安は慶長九年七月、つぎの寄進状を千日大夫にあたえた(『信史』⑲五八七頁。読みくだしにあらためる)。
信州飯縄大明神領の事
合百石は 荒安村の内
右の分御神領として付け置かせられ候、御朱印(徳川家康)重ねて申し請けこれを進むべく候、同じく伊毛井(いもい)村在家(ざいけ)・梨窪山、先規の書付けの如く相違なく申し付けらるべく候、三右衛門・新助・弥左衛門・四郎左衛門、社頭掃除已下(いか)仕り候に付いて、郷次(ごうなみ)の普請役前々の如く相違あるまじき者也、仍(よっ)て件(くだん)の如し、
慶長九辰 大久保石見守(いわみのかみ)
七月廿一日 長安(花押)
千日大夫殿
社領一〇〇石を荒安村のうちで寄進し、芋井村の在家と梨窪山を安堵するもので、百姓四人を神社の掃除役などに勤仕させるため村並みの普請役を免除している。追って家康朱印状を渡すと長安が約束した点は果たされなかったが、慶安二年(一六四九)八月、三代将軍家光のつぎの朱印状が発給された(『新史叢』⑭五四頁)。
信濃国水内郡荒安村飯縄神領、同所の内百石の事、先規に任せこれを寄附し訖(おわ)んぬ、全く収納すべし、社中山林・竹木・諸役等免除、ならびに同郡伊毛井村在家より社辺掃除の神役、ありきたる如く永く相違あるべからざる者也、依て件の如し。
慶安二年八月十七日
御朱印(徳川家光)
長安状どおりの寄進状である。以後、将軍代替わりのたびに「先判の旨」による神領安堵状が重ねられるが、そこで問題となって残ったのは、飯縄神領の「社中山林」というなかに飯縄山がふくまれているのか否かであった。
寛文年間(一六六一~七三)、飯縄山の帰属をめぐって戸隠山三院衆徒ならびに戸隠領上野村と、飯縄神社仁科神主ならびに松代領葛山(かつらやま)七ヵ村(入山・広瀬・上ヶ屋(あげや)・桜・泉平・鑪(たたら)・茂菅(もすげ))とのあいだで争論がおこり、幕府評定所で争われた。争論の中心は、飯縄神主が「飯縄山は大明神の本山であり古来神主の支配地であって、戸隠領ではない」と主張し、戸隠衆徒がわは「飯縄山は仁科が神役を勤めているが、これは天福(てんぷく)元年(一二三三)、飯縄嶽(だけ)への大明神勧請(かんじょう)を戸隠がわが許してからのことで、山自体は戸隠山神領内に紛れなく、長禄(ちょうろく)二年(一四五八)の縁起(「戸隠山顕光寺流記(るき)」)にもある」と主張した点であった。寛文十一年(一六七一)七月に裁許がくだった(『県史』⑦一三七〇)。飯縄がわの完敗であった。「流記」に記す四至境(しいしざかい)が採用され、山頂奥社などについても仁科神主の主張はことごとく退けられたのである。
このあと正徳(しょうとく)(一七一一~一六)・明和年間(一七六四~七二)にも争訴が蒸しかえされたが、ともに「流記」が証拠に採用されて飯縄がわの敗北に終わった。
天保二年(一八三一)仁科甚十郎は飯縄山頂の奥宮を建てかえ、翌三年「今後登山参籠(さんろう)するには甚十郎の発行する鑑札を必要とする」と定めた。むろん戸隠がわでは承服できず、上野村庄屋からも衆徒からも鑑札の即刻中止を要求した。七月の奥宮遷宮神事の現場へ衆徒・百姓数百人が大鎌(おおがま)・棒(ぼう)・鳶口(とびぐち)・捕縄(とりなわ)などをもって押しかけ、鑑札を奪い参籠者(さんろうしゃ)を追い払おうとした。甚十郎は寺社奉行への出訴を戸隠へ通告し、戸隠がわも訴訟をうけて立つことを三院惣衆徒三六院の連判で決定した。
今回は吟昧のようすが違った。寛文裁許いらい最重要の証拠として採用されていた「流記」の四至は、「寺社縁起というものは、ほかに適当な証拠をともなわない限り証拠とは認められない」として退けられた。その結果、寛文裁許自体が誤っていたことになり、戸隠がわは「寛文御裁許は見込み違いで、飯縄山は仁科甚十郎支配の山である」とする一札に捺印させられてしまった。
天保十三年(一八四二)正月、評定所裁許がくだされた(『県史』⑦一三九六)。裁許状は、縁起は採用できず、それに依拠した寛文裁許も、正徳・明和の絵図・裁許も無効とし、いっぽう仁科甚十郎の提出した武田・上杉・大久保長安文書などを証拠として採用し、つぎのように結論づけた。「いらい飯縄山は一円、仁科甚十郎進退と心得、社辺掃除の神役等も、御朱印御文言(もんごん)の御趣意をもって広瀬村ほか六ヵ村のものども申し合わせ相勤め、一同差し支えなき様取り計らうべき旨裁断せしめ、寛文・正徳度の裏書絵図は取り上げ、明和度裁許の儀も戸隠山にて取り用うまじき旨、申し渡し畢(おわ)んぬ」。
全面勝訴して飯縄山を手にした仁科甚十郎は、翌年二月戸隠山神領のものに境界を越えて立ちいらないよう通告した。戸隠がわは、今度は上野村庄屋と中院・宝光院衆徒の連名で、仁科甚十郎と葛山七ヵ村を相手に、戸隠神領百姓の生産・生活に死活の場である飯縄入会(いりあい)採草地を奪われていると寺社奉行所に訴えでた。けっきょく、弘化三年(一八四六)内済が成立し、部分的範囲で上野村百姓が入会って秣(まぐさ)をとってよいことになったが、飯縄山は最終的に飯縄神領に帰したのである(『戸隠信仰の歴史』)。