仁科甚十郎は荒安村の飯縄里宮に隣接する地に屋敷をかまえて居住した。神領一〇〇石は荒安村百姓に所持させて年貢・諸役を取りたてた。治安・警察などはとても自力では行き届かず、早くから松代藩の外護(げご)をうけ、松代藩では善光寺領・八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)領とともに「御支配三ヵ所」と称した(『市誌』③一章四節)。
神主仁科甚十郎は、里宮で月次(つきなみ)神事を営むほか、五月五日を中心に一日から七日まで奥宮に参籠(さんろう)して天下太平・五穀成就祈念の神事をおこなった。また七月二十七日にも参籠した。五月五日の祭礼には、戸隠宝光院衆徒も全員で参加して仙経三巻を誦することになっていた。善光寺でも、年末・年始の行事をとりしきる堂童子(どうどうじ)は、それに先だつ秋、飯縄神社へ参詣することを義務づけられていた。これらは中世いらいの飯縄信仰の名残と考えられるが、近世に仁科甚十郎が飯縄修法をひろめたり飯縄修験(しゅげん)を組織したりすることはなかった(小林計一郎前掲論文)。
天和(てんな)二年(一六八二)から三年に飯山藩主松平忠倶(ただとも)が書き上げさせた「寺社領ならびに由緒書(ゆいしょがき)」(『新史叢』⑭三~四〇頁)には、飯縄社一六社が記されている。元禄十年(一六九七)の『松代藩堂宮改(どうみやあらため)帳』(県立歴史館蔵、長野郷土史研究会刊)には、飯縄社八八社(うち現長野市域三八社)が書き上げられている。飯縄社の存在は、ほかにも水内・高井・埴科・小県・佐久・安曇・筑摩・伊那各郡など長野県下各地に多く知られており、県外にも関東・東海・越後・鹿児島等々にひろく存在する。現在も青森県から鹿児島県までの飯縄講が存在するという(根岸英一「飯縄社一覧」ほか)。
これらの飯縄社の多くは、近世以前の戦国期にすでに存在していたものとみられる。戸隠社が天和二年の飯山領で二社、元禄十年の松代領で皆無であったのにくらべて、飯縄社は早くから勧請(かんじょう)されていたといえるが、反面、近世になって戸隠社の勧請や戸隠講の組織化がすすむのにたいして、飯縄信仰のひろがりは停滞した。文久元年(一八六一)に江戸本所回向院(ほんじょえこういん)で飯縄大明神・御本地地蔵尊の出開帳が六〇日間おこなわれたが(比留間尚『江戸の開帳』)、一回限りのことだったらしい。各地の講からの参詣者はいたと思われるものの、戸隠のような御師(おし)はおらず、宿坊もなかった。文人らの善光寺・戸隠参詣記録も飯縄社には触れない。ただ、ごく少数ながら飯縄行者は存続し、近代におよぶ。