修験道(しゅげんどう)は、日本古来の山岳信仰にもとづくもので、山岳での修行をとおして超自然的霊力を身につけた行者が、それをもって庶民の求めに応じて人びとの苦悩を解決しようとする宗教である。古代から中世における修験道はもっぱら山岳での修行に重きがおかれていたが、中世末期から近世初頭にかけて、現世利益(げんせりやく)を求める人びとの苦悩にこたえる村の祈祷師(きとうし)・呪術師(じゅじゅつし)としての側面が強くなっていった。この時期、戦国大名支配から近世幕藩体制支配への推移の過程で社会規制の強化もあって、修験者(しゅげんじゃ)は霊山をめぐり広範囲に行動する山岳行者のすがたから、里に定着して村に住み地域社会を中心に活動する宗教者へとかわっていった。
近世の修験道は、天台系の本山(ほんざん)派、真言系の当山(とうざん)派、それに東北の出羽三山(でわさんざん)(羽黒山・湯殿山・月山(がっさん)(山形県))や九州の英彦(ひこ)山(福岡県・大分県)、信州の戸隠山などに代表される各地の霊山に属する修験に大別される。このうち本山派は天台宗寺門派聖護院(しょうごいん)(京都市)門跡(もんぜき)、当山派は真言宗醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)(同)門跡を頂点として、近世初期に里に定着化する修験の全国的な組織化がすすめられた。当山派は大寺支配、師弟の関係を中心とする袈裟筋(けさすじ)支配であるのにたいして、本山派は地方ごとに先達(せんだつ)職・年行事(ねんぎょうじ)をおき、一円支配体制をとって末派修験を組織化していった。先達職とは修験者の霊山への峰入りにさいし先導者となる職、年行事は本山と在地修験者とのあいだのことを執りおこなう世話役である。
信濃国の修験道も、近世初頭に本山・当山両派の組織化がすすんだ。とりわけ本山派の組織化が活発で、まず、文禄(ぶんろく)五年(慶長元年、一五九六)には佐久郡法華堂(ほっけどう)(佐久市)にたいして、本山派門跡聖護院から、先達職補任状(ぶにんじょう)が出された。法華堂は永禄十一年(一五六八)武田信玄から普請役を免除されており、中世いらいの有力な在地修験者であった。これについで慶長六年(一六〇一)、埴科郡皆神山(みなかみやま)千手院(松代町)に木曽谷の年行事職、同十六年皆神山和合院に川中島四郡の年行事職、元和六年(一六二〇)、同じく和合院に川中島・諏訪・木曽・筑摩・安曇・伊那などにおける諸山参詣先達職の補任状が、それぞれ聖護院から出された。こうして近世初頭に、皆神山和合院は信濃国の大半の先達職を聖護院から補任され、本山派の有力修験としての地位を碓固たるものとした。
皆神山は松代城下(松代町)の南東に位置する標高六五九メートルほどの独立山で、半球を伏せたような独特の山容は四方から眺望できる。和合院はこの山頂にあって、近世をとおして埴科・更級・水内・高井の四郡に居住する本山派修験を支配しつづけた。現在は、頂上の中の峰に熊野権現社をまつる。
中世末いらい佐久郡内の修験者の指導的立場を確立していた佐久の法華堂とは異なり、皆神山和合院は近世初頭に社家から転じた修験であった。
天正(てんしょう)十年(一五八二)、武田氏滅亡後の川中島四郡を領有することになった森長可(ながよし)は、海津城入城に先だって四月二日、「嶺」(皆神山熊野権現)にあてて五ヵ条の禁制(きんぜい)を掲げた。ついで天正十二年四月十九日、川中島に侵入し海津城に出陣した上杉景勝も、翌二十日ただちに社家小河原式部少(おがわらしきぶのしょう)輔にあて皆神山諏訪社の社領を安堵(あんど)している。さらに天正十五年川中島四郡を領有した上杉景勝の海津城代須田満親(すだみつちか)は、社家小河原式部少輔あてに水内・高井両郡および更級郡布施領の先達職をあたえるとともに、天正十七年と慶長二年(一五九七)に社領安堵状を出した。慶長三年、上杉景勝の会津移封のあと海津城にはいった田丸直昌(たまるただまさ)も、翌慶長四年、皆神山「桜本坊」あてに社領安堵状を出した。このように、戦国末期につぎつぎとかわる支配領主は、まず皆神山に保護をあたえており、当時、川中島地方において、皆神山がひろく、あつい信仰を集めていたことを物語る。
ところで、慶長二年の須田満親の安堵状まではあて名はいずれも「小河原式部少輔」であったが、慶長四年の田丸直昌の安堵状では、皆神山「桜本坊」あてとなっており、ここではじめて、あて名が社家から修験者にかわっている。しだいに勢力を強めてきた修験道が、このころ社家にかわって皆神山を支配するにいたったことがわかる。和合院家譜も、小河原式部少輔が聖護院の取り立てによって修験道に転じ、桜本坊と号し、のちに千手院、さらに大蔵院の号を許されたことを記している(米山一政「信濃皆神山の修験」)。