関ヶ原の戦いの翌慶長六年(一六〇一)九月、社家から修験道にかわって間もない「皆神山千手院」は、京都聖護院から木曽谷の年行事職を補任(ぶにん)され、本山派修験の組織に組みこまれることになる。これからあとの和合院の勢力拡大の道筋は、近世初期から中期にかけての聖護院門跡を頂点とする本山派修験の組織化の動きと表裏をなすものであった。その過程をみていこう。
慶長八年二月に北信四郡に入った松平忠輝(ただてる)によって、皆神山「大蔵院」は同十年、皆神山の地を熊野神社に寄進され、保護をうける。そして慶長十六年九月、皆神山和合院は本山派門跡の京都聖護院門主興意から川中島四郡の年行事職に補任されることになる。これによって和合院は、埴科・更級・水内・高井の四郡に定着し活動する修験者を組織化し、末々の修験の一円支配をはかる本山派修験道の拠点となった。ついで元和(げんな)六年(一六二〇)六月十五日、川中島四郡の先達職にあわせて、木曽・伊那・諏訪・筑摩・安曇諸郡の諸山参詣檀那の先達職を任じられ、その威勢は信州一円におよぶことになった。
こうした修験の勢力拡大に脅威をいだいた神祇管領長(じんぎかんれいちょう)吉田兼治(かねはる)は、慶長九年九月、川中島四郡の社家にあてて通達を出した。「先規のごとく神役をもっぱらにすべきのこと。第一は山伏の作法を仕り候の由、一段と曲事(くせごと)に候こと」(『信史』⑳一六~一七頁)として、神役をつとめるべきとして修験の作法を禁じるとともに、社家が諸山参詣の先達職をつとめるよう奨励している。またいっぽう、和合院が信濃国一円の先達とされた翌年の元和七年、高井郡須坂藩主堀直升(なおます)をはじめ信濃国の諸領主は聖護院院家の勝仙院(しょうせんいん)にあて、それぞれの知行地内の領民が伊勢・熊野・富士・白山(はくさん)・愛宕(あたご)・三島の諸山に参詣するさいの先達は本山派先達職に任せ、神家の先達を禁止するむねの請状を差しだした。この請状の背後には、修験に圧迫される神家との確執があったことがうかがわれ、支配領主をとりこんだ本山派修験の組織化の動きがよみとれる。
寛永元年(一六二四)六月、松代惣町中年寄・肝煎(きもいり)は連署をもって松代奉行所に一札を差しだした。諸山参詣のさい先達職は社家衆は断り、かならず山伏衆を頼むよう、すなわち和合院とその同行に依頼するというもので、そもそもこの案文は、聖護院の示達によって和合院から各村々に示されたものであった。
この本山派修験を組織化していく過程で、延宝二年(一六七四)、聖護院役人村井宮内(くない)由清・内藤兵部(ひょうぶ)元順は北信四郡の年行事である和合院にあて、全九ヵ条にわたる掟(おきて)書(『県史』⑦一八一八)を下して、配下の修験者の取り締まりを申し渡した。
第一条に、公儀の「御禁制ならびに本山・当山の御批判状」を固く守るべきことを掲げ、以下の条で、金襴地袈裟(きんらんじけさ)の着用や、院号・坊号・官位などについて取り締まり、さらに、怠ることなく入峰(にゅうぶ)修行するよう奨励している。そのあと第五条に「山伏親類のうち修験道を望みこれあらば和合院へ申し届け、本山の筋目にいたすべく候、万一当山へ契約これあるにおいては、越度(おちど)たるべく候」。第七条には「山伏弟子随分取り立て申すべく候」「古来の山伏跡目つぶし申すまじく候、ならびに山伏の遺跡俗人に渡し申すまじく候」とある。本山・当山の筋目を守り、修験の跡目の維持存続をはかるとともに、弟子取りを強くすすめている。本山派修験の組織化をすすめ、積極的な勢力拡大を求める本山派聖護院の意図がうかがえる。これは在地有力修験として勢力拡大をはかろうとする和合院がわの意図とも合致するものであった。