社家から修験道に転じてからわずか二〇年ほどで、和合院は年行事職として、北信四郡の本山派修験の頂点にたった。これは、関ヶ原の戦いのあと、慶長八年(一六〇三)に家康が江戸幕府を開いて支配体制を固めていく時期と重なる。こうした本山派の積極的な修験の組織化と和合院の勢力拡大のもとで、しだいに在地の修験者との軋轢(あつれき)も生じ、年行事である和合院からの指令に従わないものもでてきた。
和合院が川中島四郡の年行事に補任された慶長十六年は、松平忠輝がこの四郡を一円支配していた時期であった。このこともあってか、四郡の在地修験者を和合院のもとに組織化することに大きな障りは表面化しなかった。しかし元和二年(一六一六)に忠輝が改易されると、四郡は幕府領のほか飯山・須坂・松代などの諸大名領といくつかの旗本知行所に分割されることになり、以後、近世前期の支配領主は変転を重ねた。和合院の支配下とされた修験のなかには、元来和合院の手筋でなかったもの、あるいは当山派・羽黒派のものもあって、和合院との対立が表だってきた。こうした動きは元和末年からすでにはじまっていたとされる(米山一政前掲論文)。
明暦(めいれき)二年(一六五六)、和合院霞場(かすみば)(勢力範囲、檀那場(だんなば))の修験者が罪科に問われることがあり、松代藩奉行所の出頭令をうけた和合院は、筋目の異なるものや、他領の修験にまでも触れを出した。ところがこれに従わず、出頭しないものがあり、越後高田藩坂木領埴科郡坂木村(坂城町)の大福院・普門院など一一人を、和合院は松代奉行所に訴えて追放処分にした。これに反発した水内郡長沼村(長沼)千手院をはじめ高井郡間山(まやま)村(中野市)山本坊、福原村(小布施町)金胎寺(こんたいじ)、柏尾(かしお)村(飯山市)金剛寺など六ヵ寺院と、これにたいする和合院の双方が、本山の京都聖護院役人内藤兵部玄順に訴えた。聖護院の裁断は、手筋でない山伏に和合院が触れを出すことはなく、それをうけた修験も従う必要はないこと、他領に居住する修験にたいして松代奉行が処分するのは筋違いであることなど、和合院の処置は不届きであると非を咎(とが)めたうえで、一一人には追放処分を解いて支配下に復帰するように、というものであった。和合院と対立したのはいずれも松代から遠い他領の修験者で、長沼村はこのとき佐久間氏の長沼領であった。このあと、和合院恵宥(えゆう)は引退して隠居することになるものの、年行事職はその子の半宥が跡をついだ(米山一政前掲論文)。
ついで貞享(じょうきょう)二年(一六八五)、今度は、水内・高井の奥二郡の修験が、和合院の支配を不満として離脱しようとしたことに端を発し、松代領内の修験も巻きこんで、大きな争論に発展した。訴えでたのは元来は羽黒派の山伏が中心であって、そもそも和合院が川中島四郡の年行事職に補任されたとき、本山派以外の当山派・羽黒派の修験もその支配筋に組み入れられたことから、問題ははじまっていた。
訴状は聖護院院家の勝仙院に差しだされた。しかし、訴えでた高井・水内両部の修験の居住地はそれぞれ所領が異なるため、幕府寺社奉行が審理することとなり、貞享三年二月十八日、幕府は、院家勝仙院の意向もふまえて、訴えでた二郡の修験者はこれまでどおり和合院の霞下(かすみした)とするとの裁許を下した。公儀の裁定をうけた修験者のうち、柏尾村の金剛寺、間山村の山本坊など五ヵ院は同日、ただちに請状(うけじょう)を差しだし和合院の支配をうけいれた。つづいて三九人(うち一人は重複)も、同年閏(うるう)三月、和合院の霞場支配をうけることを誓って請状に連署した。しかし一一人はこれをうけいれず、和合院支配を離脱して還俗(げんぞく)したり、または他派に転じた。水内郡永江村(豊田村)三学と柏尾村金剛寺はのちに当山派に転じたが、いずれも和合院から幕府に訴えられ、けっきょく和合院の取りなしでふたたび和合院支配をうけることになるという複雑な経緯をたどることになった。また、争論を画策して訴訟に加わった本山派の飯山伊勢町(飯山市)三明院、高井郡鴨ヶ原村(木島平村)大徳院、長沼村千手院、福原村金胎寺は、このとき和合院の霞下から切りはなされ、勝仙院の直同行(じきどうぎょう)となり、その組下の同行山伏は和合院の霞下に組みいれられることになった(米山一政前掲論文)。
幕府裁許をうけいれた四三人の所領は、飯山領が二八人でもっとも多く、松平義行領三、坂木板倉領四、甲府徳川領一、須坂領二、善光寺領一、赤沼知行所一、それに松代領も三人いた。松代領の三人は、水内郡小島村(柳原)多宝院は長沼村千手院同行、高井郡東川田村(若穂)海競院は福原村金胎寺同行というように、この訴訟の中心となり和合院霞場をはなれた有力修験者の同行、または訴訟をおこした修験の同行であった。
寛文四年(一六六四)、幕府がキリシタン取り締まりを制度化したことをうけて、貞享年間(一六八四~八八)は諸藩の宗門改めが本格化した時期である。後述するが、修験者の場合、家族は地元の檀那寺の寺請けですんだが、本人は年行事の和合院の請判(うけはん)が必要であった。こうした毎年の宗門改めの煩雑さも、遠方でしかも他領に居住する修験者には、日ごろの不満をいっそうつのらせる要因であったのかもしれない。
このとき、訴訟に加わらなかった北信四郡の和合院霞下の修験一二五人も、同様の請状を和合院に差しだした。敗訴して和合院支配に従った四三人とあわせた一六八人が、和合院霞場として固まった。こうして、幕府の裁許によって、それまでとかくあいまいであった和合院と北信四郡、ことに奥方とよばれる高井郡・水内郡北部の修験者との関係が明確に示されることになった。
和合院が勢力を膨張させていく過程でおこった近世前期の二つの訴訟事件は、いずれも奥方二郡の有力修験者が発頭(ほっとう)人となっておこされたもので、和合院は非を咎められることがあってもけっきょくは勝訴となり、かえって年行事和合院の霞下となる同行筋が幕府公許のもとではっきりすることになり、その勢力はいっそう盤石のものとなった。しかし、問題の根本が解決されたわけではなく、和合院支配をめぐる争いはくすぶりつづけた。
寛政二年(一七九〇)、聖護院役人小島大進法橋(ほっきょう)・内藤兵部法眼(ほうげん)は、高井郡中野村(中野市)不動寺など高井郡内の六ヵ院を、和合院霞場から切りはなし、「古来の由緒筋目をもって」、聖護院の直同行とすることを申し渡した(『熊野出速雄神社文書』)。貞享三年の裁許から一〇〇年をへてなお和合院同行をめぐってもめつづけ、ようやくひとつの結論が出された。このあとも幕末までこの問題は尾をひいた。