里に定住した修験は、山岳修行で得た霊力をもって護摩(ごま)を焚(た)き加持祈祷・呪術をおこない、人びとの苦悩にこたえていった。
中条村の民俗調査で、奈良井に住む明治三十九年(一九〇六)生まれの話者は、つぎのように話している(『中条村民俗調査報告書 中条村の生活と民俗の変容』)。修験者のことを「ホーイサマ」(法印様)とよび、その仕事は「不幸に歩くこと、護摩を焚くこと、ヨケゴト(除け事)をやること、ツキマチ(月待)に歩くこと」であった。修験者は檀家をもっていて、葬式には寺方の僧のあとについてほら貝を吹いて先達(せんだつ)をつとめる。不動様の祭りには護摩を焚き、家に病人が出ると、法印様に頼んで拝んでもらい「サワリ」(障り)を除けてもらう。月待は毎月決まった日に祈祷をあげてまわるのだが、ふつうは春(春・秋二度のところもある)に檀家を一軒ずつ巡回して祈祷をして歩いたという。
修験者は、住居の内の座敷に祭壇をしつらえるか、あるいは江戸時代も中期から後期になると、母屋とは別に独立した護摩堂をもつようになった。小布施町の旧修験跡の調査によると(小林暢雄前掲論文)、福原新田村の本山派金胎寺は、かつては、四間四方の藁(わら)屋根の護摩堂を構え、像高一三センチメートル、総高三〇センチメートルほどの本尊不動明王像と、江戸時代後期の作とされる不動明王像の二体を安置していた。天保十年(一八三九)二月晦日(みそか)から三月七日まで、金胎寺は自坊において本尊の火防不動明王の開帳を企て、昼夜護摩を焚き、説法をおこなった。京都の本院聖護院から宮家の入峰に供奉(ぐぶ)するよう仰せだされ、上洛(じょうらく)の諸入用を捻出する必要に迫られたという。前項でみたように、金胎寺は明暦二年(一六五六)、松代皆神山和合院の霞下を離れ、聖護院の直同行となっていた。
有力修験であった金胎寺の護摩堂は大きいほうで、この地方では二間四方前後くらいがふつうであった。中条村地京原(じきょうはら)の旧修験大善院には土蔵づくりの護摩堂があり、本尊不動明王を安置し、役行者(えんのぎょうじゃ)と五大明王(ごだいみょうおう)の画幅が掲げられている(『むしくら 虫倉山系総合調査研究報告』)。
松代熊野出速雄神社には、修験の活動を伝える文書が残されている(熊野出速雄神社蔵)。以下、この文書によってみていく。
和合院当主は例年、年頭にあたり登城して松代藩主に目見えするならわしで、大鋒院(だいほういん)(信之)二〇〇回忌法事など藩主真田家の法要に参じ、藩主入部にさいしても目見えしている。享保二年(一七一七)三月十七日、「大守様より御祈祷仰せ付けられ」とあり、藩主の祝い事をはじめ、折にふれて護摩祈祷を執りおこなうなど、藩主真田家とのかかわりは深かった。
差し出し人を松代城下の「寺町」とする年次不詳の書状によると、今年生まれた男子が当月四日から煩い、乳も医者の薬もいっさいおさまらず鼻から出してしまうありさまで、のどの奥から耳の下、さらには舌にいたるまで胎毒(たいどく)がひろがってしまい、極難症におちいって苦しんでいる。この苦しみがすこしでも楽になるよう、御加持を頂戴したいと願っている。十七日の日付けであるから、発病から十三、四日も苦しんでいることになる。医師の薬も用いながら、修験の加持祈祷にも頼っている。松代藩士の家庭と思われる。
別の年次不詳の書状では、佐貫(さぬき)藩(千葉県)阿部因幡守(いなばのかみ)家中の小林惣右衛門は、初穂料一朱を添えて、子息の病気全快の祈祷を依頼している。どういう縁か遠方からの依頼であり、切実な親心がうかがえる。いずれも近世後期から末期ころのことと思われる。
年次不詳の四月二十五日付け書状によると、この年は天候不順につき、松代藩は真田家祈願所である西条村(松代町)真言宗開善寺にあて、郡中の僧院・社家・修験で五穀豊穣の祈祷をおこなうよう申しつけ、和合院にも開善寺からその旨が触れられた。松代藩は、文政十年(一八二七)七月、日照りつづきで旱魃(かんばつ)となり、郡中の寺社・修験に命じて領内四方の山嶺(さんれい)で一昼夜火を焚いて雨乞いをおこなわせたこともあった(災害史料⑭)。
弘化四年(一八四七)三月の大地震のあと余震がつづく同年六月、更級郡本鹿谷(ほんかや)村(信州新町)の修験常宝寺と明正寺(みょうしょうじ)は、和合院につぎのように報告している。「村の産土(うぶすな)神社の社家が地震消除祈願のためとして村中一同を神社の神前に集め、「神附」という祈祷をおこなった。村役人から村中家ごとに残らず出席するようにとのことで、やむをえず出席したが、社家は勤行修法(ごんぎょうしゅほう)をしないで心ばかりの祈念をおこなっただけである」という。このころは天地異変にさいしての祈祷は修験に頼ることはなく、村々の産土社で神事でとりおこなっていたようで、和合院は配下の修験にその実態を問いあわせていたものである。
弘化四年の地震のあと、幕末・維新期にかけて、和合院をはじめ修験をとりまく状況はあわただしさを増していった。
嘉永元年(一八四八)、琉球(りゅうきゅう)・対馬・五島(ごとう)・蝦夷地(えぞち)などわが国の近海に異国船があいついで出没すると、幕府と朝廷はその対応に追われた。同年五月、聖護院門主は来年(嘉永二年)三月、箕面山(みのおやま)(大阪府箕面市)において勅会(ちょくえ)御法事をつとめたあと数百年来とだえていた葛城嶺(かつらぎのみね)(大阪府・奈良県)の霊場を再興し修行をおこなうとして、全国の配下修験にも参勤するよう触れた。葛城嶺は、奈良時代の修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)が山岳修行を積んだ聖地であった。皆神山和合院もこれをうけ、嘉永二年正月十二日、霞下の修験、更級郡竹房村(信州新町)金剛寺ら七院に二月二十日までに上京するように、また上納金は一月二十日までに差しだすよう触れた。ところが、地震災害直後の北信四郡からは不参者のものが多く、不参者の上納金は嘉永五年になっても滞っていた。
嘉永六年六月三日、浦賀沖にペリーが軍艦四隻を率いて来航し来春再来航することを告げて去ると、朝廷は嘉永三年につづいて再度、同月十五日、七寺七社にたいして異国船来航につき退散の祈祷をおこなうよう命じた。京都聖護院役人小島治部法眼(じぶほうげん)らは同年十月、名代若王子権僧正(にゃくおうじごんのそうじょう)はじめ院家・先達以下年行事、触頭(ふれがしら)、役僧等にいたるまであげて、きたる二月十六日、葛城嶺において「夷狄退攘(いてきたいじょう)・天下太平・国家安穏・御武運長久」の臨時祈祷をおこなうよう門主から仰せだされたので、末流一同、二月七日までに京都に参集するよう申し渡した。これをうけて、和合院は配下の修験に回状をまわし、来年二月に上京することはもちろん、各院自坊においても鎮護国家・夷狄退攘の祈祷をおこなうよううながした。
文久三年(一八六三)、和合院に京都から一通の報告がもたらされた。同年七月から八月にかけて、貿易商人が京都三条橋畔(きょうはん)に首をさらされた事件、そして攘夷親征の詔勅が出され尊攘派が追放にあう前後の生々しい京都の政情、さらに、この年天台座主から還俗(げんぞく)して公武合体を推進することになる伏見宮邦家第四皇子中川宮朝彦(あさひこ)親王の動静も伝えている。末尾に紙をはり継いで「右の書、借り物ゆえお序(つい)での節お返し下さるべく候」と加筆し、「万兵衛」が「御隠居様」にあてている。異国船来航から開港へと展開する世情のもとで率先して尊王攘夷の祈祷に奔走していた本山派修験は、しだいに神仏分離、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のなかで神道にその地位を侵されていった。こうした情勢をつぶさに見聞きしていた和合院は、先述したように、明治維新期に復飾(ふくしょく)し神官となった。