村の神々

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江戸時代の村々には複数の神々がまつられている。そして終始村の神々が変わらなかったところはまれで、江戸時代を通じて神々のありようが変わり、また多くの場合その数が増した。

 江戸時代前期末と中期の村の神々を、松代領の現長野市域の村々でみてみよう(表7)。元禄十年(一六九七)の『松代藩堂宮改帳(どうみやあらためちょう)』(県立歴史館蔵、長野郷土史研究会刊)と宝暦九年(一七五九)の「松代領神社書上」(『新史叢』⑭)による。両者は調査対象に違いがある。元禄改め帳は神社のほかに神仏の堂・庵(あん)を書き上げ、とくに山中(さんちゅう)村々では百姓個人持ちのものまで書き、村によっては小祠(しょうし)や道六神(どうろくじん)(道祖神)などの石塔から、社殿がなくて地面や木立ちばかりのものまで書くなど、基準が不統一である。

 これらのうち社殿も祠(ほこら)もなく地面や木立ちだけというのは、日本の原初的な信仰では山・岩・森や立ち木そのものが祭場だった姿が残っているためと理解されている。そうした姿はことに山中に濃いが、里郷(さとごう)にも存在し、しだいに社殿や祠形態へと移行してきたと考えられる。『堂宮改帳』の里郷更級郡下横田村(篠ノ井)の「一、富士宮地 無宮(みやなし)」とあるところに後年朱書が加えられていて、「元は神木があった所だが、老木になって根腐れしてしまった。その跡へ元文(げんぶん)三年(一七三八)に願いでて小宮を建てた」とある。神木にかえて社殿を建てるといったことは、里郷でもまだ進行過程にあったのである(千葉徳爾「屋敷神の地域的展開」)。


表7 松代領町村(長野市域)元禄・宝暦期の神名

 右の記載不統一の元禄改め帳にくらべて宝暦書上げ帳のほうは、「尤(もっと)も、社人(しゃじん)等これなきほどの小社は書き記し候に及ばず候」などと基準をしめしての調査で、すべて社人(神主)がいて、村中所持で、社殿をそなえた神社に限られている。したがって両者から神社数の比較などをしてもあまり意味がないが、どのような神々が村々にまつられていたかを知ることができる。

 両帳を通じて圧倒的に多数を占めるのは、第一位の諏訪社(上(かみ)社・下(しも)社をふくむ)、第二位の伊勢社(神明(しんめい)、太神宮(だいじんぐう)などをふくむ)で、八幡社(若宮八幡をふくむ)がこれにつぎ第三位である。各村でこの三つの神社の大半は元禄・宝暦の両帳にあらわれ、宝暦帳によるとその多くが松代藩から除地(じょち)(寺領)をあたえられている。この三社は、村々の産土神(うぶすながみ)(鎮守(ちんじゅ))となる神の主流を占めているとみて間違いない。

 このほかの神々は多種多彩である。大別してみると、①著名な大社を勧請(かんじょう)したもの、②山岳信仰に由来する修験(しゅげん)系のもの、③先祖神や土地神および自然信仰に由来する神々、④神とも仏ともつかぬ神仏混淆(こんこう)のもの、などがみられる。

 ①には稲荷(いなり)・天王(てんのう)・鹿島・住吉(すみよし)・松尾・春日(かすが)・貴船・三島(みしま)・愛宕(あたご)・加茂等々がある。②は飯縄(いいずな)をはじめ、熊野・富士浅間(せんげん)・白山(はくさん)・羽黒・金峰(きんぷ)山・四阿(あずまや)・妙義・蔵王(ぎおう)等々である。③には道六神・山の神・社宮司(しゃぐうじ)・十二社・荒神(こうじん)・天白(てんぱく)・金山(かなやま)・池田・瀬関・三輪・風間・妻女・尾滝・笹焼(ささやき)・剣・日月(じつげつ)神・雷電(雷天)・天狗(てんぐ)等々がみられる。このうち社宮司(釈子・社号)の神は、諏訪信仰との関係で説かれることがあるが、村の境界で悪神・疫神の進入を防ぎ村を守る塞神(さいのかみ)であろうとする考えもある。また荒神には、三宝(さんぽう)荒神という記載もあるから火の神をふくむが、荒れくるう荒ら神の霊鎮(たましず)めもふくまれているらしい。なお、単に権現宮(ごんげんのみや)・明神(みょうじん)・大明神あるいは氏神(うじがみ)・地神・水神などと記し、神体不詳の神々が少なくないが、いずれも勧請神よりも古くから村と村人を守護する神としてまつられてきた神ではないかと感じさせる(氏神については本項「屋敷神と家の神」参照)。④には庚申(こうしん)・虚空蔵(こくうぞう)・弁才天(べんざいてん)・梵天(ぼんてん)・十王・不動明王等々がある。何々権現なども神仏混淆の姿であるが、近世には明らかに仏教系のものでも神としてまつられることが珍しくなかった。なお、庚申には仏教系と神道系の両方がある。

 四分類してみたが、さらに大きくくくれば、勧請神と非勧請神とに分けられよう。非勧請神のほうは、在来神といいかえてもよいであろう。まず、山の神など自然を畏敬してこれを神格化した自然神、田の神など農作物の豊穣(ほうじょう)をもたらす穀霊・産霊神などがある。ただし、柳田国男いらい民俗学では、山の神が春先に里におりて田の神となり、農作物の成長と収穫を保護したのち、秋には山の神にもどると理解されている。また、人をまつる人神(ひとがみ)があり、これには先祖をまつる先祖神のほか、非業(ひごう)の死をとげた人のたたりを鎮める御霊(ごりょう)神などもある。やや特異な人神では、多大の恩恵をうけた人を生前からまつって奉斎(ほうさい)するものがある。伺去真光寺(しゃりしんこうじ)村(浅川)では、弘化四年(一八四七)の善光寺地震の救恤(きゅうじゅつ)に尽力してくれた幕府代官高木清左衛門の恩徳に感じ、高木大明神としてまつった。また、嘉永年間(一八四八~五四)石油採掘をおこない地域に繁栄をもたらしてくれた荒井藤左衛門を持国大明神とあがめ、高木大明神のかたわらにまつった(『浅川村郷土誌』)。

 非勧請神はおおむね、勧請神よりも素朴(そぼく)な姿をとる。その素朴な在来神をまつりつづけながらも、より強力な霊力を期待して迎えまつるのが勧請神である。なお、勧請神と在来神との分布比率をみると、在来神の比率は里郷では小さく、山中ではいちじるしく大きい(千葉徳爾前掲論文)。先にふれたように山中には社殿も祠もない地面や木立ちだけの神が多いが、このことと在来神の多さとは密接に関係していよう。

 勧請神として、市域村々に圧倒的に多いのは諏訪神・伊勢神・八幡神である。ともに古代・中世にさかのぼる古い勧請をふくむ。伊勢社で神明(しんめい)とよばれるものは、古代・中世の勧請である場合が多い。むろん伊勢社は伊勢御師(おんし・おし)の活躍と伊勢詣(もう)での盛行にともない、近世に入ってからも、各地の村々で勧請する動きがつづく。北長池村(朝陽)では寛永十八年(一六四一)、伊勢宮を勧請した。『町村誌』の同村にこう書かれている。「村は寛永年中まで犀(さい)川・裾花(すそばな)川が会同する川崖(かわがけ)でしばしば水災があり、耕地はもちろん家屋も流失した。よって寛永八年郷中協議、伊勢神廟(しんびょう)へ参宮祈願をこめ、御師小倉氏を招いて治水の祈祷を執行したところ、大雨洪水で犀川が大豆島(まめじま)村南へ激突して千曲川に会同し、現今の川筋にかわった。そこで右の川跡深淵の場に伊勢宮を勧請し、それ以降新田開拓がすすんだ。二五〇年後の今に至って郷中人民春秋の祭祀(さいし)を怠らず。これ犀川の流域変更の起源なればここに識(しる)す」。ただし、犀川の流路変更がこの年次であったとみる明証はない。

 勧請神は、信濃国内の神では諏訪社と飯縄社に代表される。戸隠社がみえないのは一見奇異に思える。旱魃(かんばつ)の雨乞いのさい戸隠へお種水を頂きにいく九頭竜(くずりゅう)水神信仰は当時から深かったにちがいないが、おそらく戸隠山やお種池あっての水神であり、市域からは一日で往復できるところでもあり、勧請しなかったのではないかと考えられる。江戸後期になると戸隠の勧請社も出てくる。信濃国外では畿内(きない)とその周辺の神々が目立つが、山岳信仰に由来する修験系の神々はより遠い範囲になる。なお、この元禄には、稲荷は京都の伏見稲荷、天王(牛頭(ごず)天王)は京都の祇園(ぎおん)社(八坂(やさか)神社)からの勧請を主とするとみられ、まださほどの数ではない。江戸後期になると、それぞれ豊川(とよかわ)稲荷(愛知県豊川市)、津島牛頭天王(津島権現、同県津島市)からの勧請が増す。

 このように村と村びとの全体を守る産土神を頂点として、そのもとにいわば分業的に異なる利益(りやく)を帯びて他の多くの神々がまつられているという神々の体系が、どの村でもみられるのである。その神々は、産土社の盛大な祭礼を頂点に、年間に月日をかえてまつり分けられる。明治初年の例で暦が近世とは異なっているが、広瀬村(芋井)では、産土神の広瀬神社で九月二十七日に秋祭りがおこなわれ、これをピークに山神(やまのかみ)社二月九日、津島社六月一日、熊野社八月十七日、葛城裾花(かつらぎすそばな)神社八月二十七日、猿田彦(さるたひこ)社八月二十八日、金山(かなやま)社十月一日、諏訪社十月九日、伊勢社十月十二日、子安(こやす)社十月十三日、地神(ちのかみ)社十月二十一日と祭礼が営まれた(『町村誌』北信篇)。