ところで、産土(うぶすな)社は、江戸前期末の元禄十年帳の時点でみると、じつはまだ存在していない村々もあった。里郷(さとごう)の村々ではすでに産土社が定まっていたが、山中(さんちゅう)では産土社の存在する村のほうが多いとはいえ、それに相当する神社のみられない村も少なくない。
たとえば橋爪(橋詰)(はしづめ)村(七二会(なにあい))には、仏教系の堂(本節三項)を別として二五社があったが、村中持ちの神社はひとつもなく、すべて百姓個人名の所持である。うち一二社は「森有り」と神地の木立ちがあるだけ、森と石塔あるいは石塔だけのものが七社、「森宮有り」「宮有り」と社殿の存するものが六社である。個人持ちの百姓は一三人いる。なかに、飯縄(いいずな)宮二社(宮森有り)・伊勢宮二社(石塔有り)・氏神二社(森有り)・若宮八幡(森有り)・構真(庚申か)堂(石塔有り)と八社を所持する組頭の九兵衛、八幡宮(森宮有り)・諏訪大明神(森宮有り)の二社をもつ源兵衛、天神(森有り)をもつ甚左衛門などがいる。
瀬脇(せわき)村(七二会)にも、村中持ちの神社がない。二三社・一堂のすべてが一六人の百姓持ちで、なかで肝煎(きもいり)の源左衛門は伊勢宮(宮有り)・明神(宮有り)・荒神堂(無住)・道六神(どうろくじん)二社(屋敷有り)を所持し、老(おとな)百姓の八左衛門はおせづき宮(森宮有り)・伊勢宮(宮有り)・道六神(屋敷有り)をもち、もうひとりの老百姓半太郎は荒神(屋敷有り)・光神(岩宮有り)・道六神(屋敷有り)をもち、そして小右衛門が白山権現(森宮有り)を所持している。
類似の村はほかにも少なくない。元禄段階でまだ一村共有の神社を欠き、村の百姓個人持ちの社だけがある。その百姓は肝煎・組頭・おとな(老・長・乙名)百姓などをふくむ村の有力百姓である。より正確には有力百姓を本家とする同族団(一族、マキ、イッケ)の所持とみるべきものであろう。
里郷・山中を問わず、むろん村成立の最初から村持ちの産土神が定まっていたところもあったにちがいないが、戦国末・近世初頭にさかのぼれば、里郷のなかにも、このような有力者一族のまつる神(氏神)しかなかった村々が存在したと推定される。地侍クラスであったような有力者が戦乱で退転したり、上杉氏国替えに随行して去ったり、土豪一揆(どごういっき)をおこして森忠政に討滅されたりした機会に、一族持ちから一村持ちへと転化し、村の産土社が成立したと考えられる。時あたかも百姓だけの近世村が形づくられつつあった時期で、産土社とその祭祀(さいし)は一村結集の精神的中核となる。
山中ではその進行がややおくれて、元禄期にまだ産土社の形成にいたらない村々が存在したとみられる。江戸中期の宝暦改め帳になると、事態は明らかに変わっている。先の橋詰村では社領一石の飯縄宮をはじめ、諏訪宮(三社)・天神宮・伊勢宮・八幡宮が、村中所持で、社殿があり、神主矢島壱岐(いき)の奉斎する神社として登録されている。瀬脇村でも、伊勢宮・瀬付宮・白山宮の三社が、やはり村中所持、社殿・神主ありで登録された。これらの神社名は、いずれも元禄帳の有力百姓持ちのなかに見受けられるもので、元禄から宝暦にいたるあいだに、一族所持から一村所持へと転化、昇格したのであった。