みてきたように松代藩元禄堂宮改め帳の山中村々には、百姓個人持ちのおびただしい神社・堂が書き上げられている。里郷には少ないが、これは記載の仕方の違いにもよっており、里郷にも相当数存在したとみるべきであろう。百姓個人持ちの社・堂は、その有力百姓を本家とする一族によってまつられたとみるべきことは前記した。その意味ではすべて一族の氏神(うじがみ)であるが、同じ個人持ちのなかに元禄改め帳に、
森有り 一、氏神 甚左衛門 (橋爪村)
のように、「氏神」として書き上げられた社がある。その名がしめすとおり、これは氏、つまり一族(同族団、マキ)がまつる一族の守護神に相違ない。
前述した橋爪村には、こうした氏神が、九兵衛の二社、甚左衛門・伝之丞・久右衛門の各一社、甚助・助之丞連名の一社と、計六社がある。瀬脇村にも、四家四社の氏神が記されている。同様に氏神を記載する山中の村には、古間・五十平(いかだいら)・黒沼・坪根(七二会)、小鍋(こなべ)(小田切)、山布施(篠ノ井)各村がみられる。これらは、たまたま小祠・石塔・神地の類まで列記した村だからで、他の村に氏神がなかったとは思われない。有力百姓一族の本家に氏神がまつられる例は多かったと考えられる。本家所持の山地・畑地にまつられることもあったが、本家の屋敷内に小社や祠を建てることが多く、屋敷神ともよばれる。
その目でみると、里郷村々のなかにも、氏神とは書かれないが同じ実体と考えられる社の記載がある。
一、かしま大明神 石宮御座候、
当村七太夫持高之内 (西条村)
一、弁才天宮地 宮有り、但し善右衛門屋敷の内 (石川村)
といった記載である。前者は西条村(松代町)に四家四社みられる。後者は石川村(篠ノ井)に三家三社みられるほか、保科(若穂)・小島田(おしまだ)(更北小島田町)・大塚(更北青木島町)・真島(更北真島町)・三輪(三輪)各村に記される。これもまた詳細な書き上げをした村だからであり、他の里郷村々にも屋敷神は存在したとみるべきであろう。
屋敷神の類型を発展順に位置づけた研究(直江広治『屋敷神の研究』)によると、屋敷神には①本家・旧家のみにまつられる場合、②同族が集まって祭りをおこなう場合、③村の各戸にまつられている場合の三類型があるが、①が原型で、ここから、同族結合が強固な地域では②へ、それがゆるやかな地域では③へと推移するという。北信は同族結合の強固な東日本に属する地域だが、元禄前後は①から②への移行過程とみてよいのではないか。本家中心ながら、小百姓自立で急速に増しつつある血縁・非血縁分家も奉斎に加わってきている段階と思われる。
屋敷神を奉斎するような有力百姓一族にも栄枯盛衰がある。山布施村(篠ノ井)で元禄に氏神を奉斎した庄兵衛家はその後断絶し、文政七年(一八二四)の松代藩社寺改めにあたって、村は願いでてこれを村持ちとした。三輪村の伊右衛門家の屋敷神だった社宮司(しゃぐうじ)宮は、同家一族が零落してか、やはり文政七年に同村横山組の組持ち社となった。同じ三輪村で長右衛門家の屋敷神だった庄徳宮は、潰(つぶ)れ百姓化したらしい長右衛門家にかわってその百姓株を相続した甚十郎がうけついだ。
このように江戸前期いらいの有力一族本家の屋敷神にも盛衰、転変がともなったが、大きな流れとしては江戸後期に屋敷神は増加したとみてよいと思われる。それも、後期になると、かならずしも同族団一族奉斎の屋敷神ばかりでなく、一家単独でまつる屋敷神もあらわれ、明治以後にも新たにまつる動きがつづく。『輪中(わじゅう)の村牛島村誌』は「民家の鎮守様」(屋敷神)として、宮殿造りの祠(ほこら)、宝塔型、光背型など種々の形態の二〇件をあげている。造営年次の明らかなものでは、享保二年(一七一七)や翌三年から昭和三十年(一九五五)におよぶ。
村の神々、一族の神々と重層的に神々が存在するなかで、いわば最底辺に一軒一軒の家のなかにまつられる神々がある。家のなかの神というと神棚を連想しやすいが、江戸前期には仏壇もそうだが神棚はなかった。全国的にも年代の確実な最古の神棚は、京都府でみつかった一八世紀半ばのものだという(『国史大辞典』③)。仏壇のほうでは、長野市域の記録では享保十五年(一七三〇)のものが早い。同年八月、更級郡今井村(川中島町)の百姓与兵衛が本人・妻子とも領分追放、家財・家・田畑闕所(けっしょ)の処分をうけたときの闕所帳に「一仏壇 壱つ 但し内に本尊一体、仏具共にあり」の記載がある(『市誌』⑬一八二)。造りつけの仏壇でなく、持ち運びのできる形のものだったらしい。一八世紀の後半になると、上層民のなかに神棚・仏壇をしつらえる家が増しはじめる。更級郡岡田村(篠ノ井)の寺沢家は寛政四年(一七九二)、宮殿造りの仏壇を北原村(川中島町)の大工につくらせた(「世帯道具覚」『寺沢家文書』県立歴史館寄託)。しかし、神棚も仏壇もひろく一般化するのは幕末ぎりぎりから明治に入ってのことと思われる。家の神々は神棚でなく、家屋敷の諸所にまつられた。
家のなかの神々の姿は、高度経済成長後すっかり影が薄れてきているが、その名残として受けつがれているものに、正月の松飾り・注連縄(しめなわ)飾り、それにお飾り(鏡餅)を供える場所がある。松飾りや注連縄飾りはそなえる場所により大小も形状も区別されるが、「神棚・床の間・玄関・馬屋口・井戸・土蔵・倉屋(薪屋・物置)・いろり・屋敷神・便所等」(『田野口区史』)へ飾るとか、「神棚をはじめ玄関、床の間、台所、便所、井戸、納屋(なや)などなるべく多く飾るのが古いしきたり」(『御幣川(おんべがわ)区誌』)とされているとおりであろう。
これらのうち床の間は神棚同様、江戸後期にやっとごく一部分の上層民の家にみられるだけであり、玄関もそうであるが、囲炉裏(いろり)・台所・雪隠(せっちん)・井戸・納屋・土蔵・屋敷神などはより古くからのもので、家の神々の住まう場所であった。鏡餅のほうも餅つきのとき二臼(ふたうす)目(一臼目のところもある)から大小種々のお飾りをつくり、これを神々の住まう諸所に供えた。松飾りも鏡餅も、大きな家屋敷だと二〇ヵ所、三〇ヵ所という数にのぼった。だが、いまでは、家の神々をまつる最後のこの慣行も失われて過去形にかわりつつある。
家の神々のなかでもっとも重要だったのは囲炉裏の神であろう。西日本なら竈(かまど)の神だが、信州は東日本の囲炉裏圏に属し、竈が入りはじめるのは幕末近いころからである。囲炉裏の火を囲んでいっしょに暮らすことが、ひとつの家族であり家であった。そこに住まう神は、単に火の神、火伏せの神というだけでなく、家族や牛馬の守護神、農作の神、いのちや富をつかさどる神でもあった。一軒一軒の世帯数を数えるときに、西日本では竈数でしめすが、信州などでは鉤(かぎ)(囲炉裏の自在鉤)数でとらえ、家にかける村役を「かぎ役(かん役)」とよぶほど、囲炉裏は家の中心で、その神はたいせつな神であった。囲炉裏の火を長く清浄に保つことが家の永続のもとと意識されていた。囲炉裏に残った火に灰をかけて翌朝まで火種を絶やさないことが主婦の務めとされたり、家族が死ぬと囲炉裏の灰や自在鉤を取りかえたり、自在鉤に正月の注連縄を飾るほか稲の苗や初穂(はつほ)を供えたりもした。なお、囲炉裏の神を三宝荒神(さんぽうこうじん)としてまつるのは江戸時代の中途からのことで、より古くは無名といってもよい火の神にして作の神の在来神であったろうとされている。