近世にはさまざまの宗教的な講(講社)組織が拡大した。現長野市域もその例にもれず、伊勢講を筆頭として戸隠講・三峯(みつみね)講・秋葉(あきば)講・古峰(こみね)講・三山(さんざん)講(出羽三山)・御嶽(おんたけ)講(木曽御嶽)・稲荷(いなり)講・恵比須(えびす)講・念仏講・観音講・道祖神講・庚申(こうしん)講・二十三夜講などがひろくつくられた。このほかに限定された地域の講として、八幡(はちまん)宮(武水別(たけみずわけ)神社)の蟇目(ひきめ)講、皆神山(みなかみやま)熊野権現の皆神講、聖山(ひじりやま)聖権現の聖講、長沼西厳寺(さいごんじ)の西厳寺講等々があった。これらの講には、村あるいは組(小集落)の全戸で構成されるものと、有志でつくるものとがあった(『市誌』③四章三節三項参照)。
伊勢講は、伊勢外宮(げくう)・内宮(ないくう)の御師(おんし・おし)の盛んな巡回教化活動によって、近世には市域のほとんど全村に形づくられた。御師とは特定の寺社に属し、参詣者を参拝に誘導して祈祷・宿泊などの世話をし、さらに地方をめぐって檀那(だんな)の組織化をおこなった人びとである。平安末期に熊野・日吉(ひえ)・石清水(いわしみず)八幡などではじまり、中世には伊勢・松尾・三島(みしま)・富士浅間(せんげん)・白山(はくさん)などの御師も活躍した。とくに伊勢御師の活動は中世から近世へと活発化した。伊勢御師は地方をまわって檀那を獲得し、年々檀那まわりをして御祓札(おはらいふだ)や土産(みやげ)品を配り、御初穂(おはつほ)(布施)の米・金を集め、さらに村々に伊勢講を組織し、講から毎年伊勢へ代表者が参詣(代参(だいさん))するしくみをつくりあげる。
伊勢御師は、豊臣政権下の文禄(ぶんろく)年間(一五九二~九六)に外宮の御師だけで一四五家、江戸中期の正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)には外宮五〇四家、内宮二四一家を数えたという。御師はそれぞれ自分の檀那場を所持しており、これは財産として相続・譲渡・売買された。伊勢御師の活動は中世に信濃にものびていた。武田勝頼が北信を支配していた天正(てんしょう)九年(一五八一)、伊勢御師荒木田久老(あらきだひさおゆ)は信濃国の「道者(どうじゃ)」(檀那)へ御祓札を配る旅にきたが、北信でのその足跡は善光寺、海津(松代)、市村・荒木(芹田)、飯縄千日大夫(いいずなせんにちたいふ)、上ヶ屋(あげや)・広瀬・横棚(芋井)、中越(なかごい)・吉田(吉田)、駒沢(古里)、風間・大豆島(まめじま)(大豆島)、東和田(古牧)、長沼(長沼)などにわたり、檀那は国人(こくじん)・地侍(じざむらい)から有力百姓、さらに僧・山伏・町人・職人・商人などにおよんでいた(『信史』⑮六七~七九頁、『市誌』②二編三章四項参照)。
伊勢御師の活動は、近世に入るといっそう活発になる。信濃へも多くの伊勢御師が入りこみ、その活動によりそれぞれの檀那場が形成され、村・町を単位に百姓・町人の全階層をとらえこんだ伊勢講がくまなく形づくられた。御師のひとり麻生口(あそうぐち)六大夫は弘化二年(一八四五)、親から子へと跡目(あとめ)相続をした継目(つぎめ)披露の檀那場まわりに北信へきた。まず松代で登城披露をおこない、ついで巡村する依頼挨拶状を檀那場の村々へまわした。檀那場は現豊野町・須坂市域の一部のほか、長野市域の古里・長沼・柳原・朝陽・古牧・吉田・大豆島(まめじま)・芹田(せりた)・中御所各地区の村々であった。注意すべきなのは、その依頼状が名主はじめ村役人あてに出されていること、そして多くの村に定宿(じょうやど)の家が存在していたことで、伊勢講はすべて村単位につくられていたことがわかる。村々は結構な食事をととのえるなど御師をねんごろに接待し御初穂を渡した(『市誌』⑬四五七、『市誌』③四章五節三項)。
御師は年に一度巡村にくるが、拠点となる村に旅家(たや)を設け常駐に近い形で手代をおく場合もあった。たとえば善光寺東之門町には御師の旅家があり、天保三年(一八三二)のころには手代の西市判左衛門が駐在し、善光寺諸町から山中村々にかけての太々神楽(だいだいかぐら)講を組織して掛け金を集めている(三輪 小林朋市蔵)。
伊勢講とちがってどの村にもあるわけではないが、ほかにもさまざまの神社から講をもつ御師が訪れて御札を配り御布施を得た。また、講はないが、社寺造営費などとして幕府寺社奉行所の許しを得た御免勧化(ごめんかんげ)にまわる御師・神主・僧侶も多かった。文政四年(一八二一)東福寺村(篠ノ井)では、定例勧化として伊勢・諏訪宮・榛名山(はるなさん)・御嶽山(おんたけさん)など、ほかに甲斐一宮(いちのみや)・下総(しもうさ)鹿島宮・尾張津島権現(牛頭天王(ごずてんのう))など訪れた種々の寺社への勧化金品が計一両余となり、これに堰(せぎ)普請費などを加えた計二両一分余を、村民に持ち高割りで割りあてて集金している(東福寺 相沢幸治蔵)。
関屋村(松代町)の慶応元年(一八六五)「品々諸留(しなじなしょとめ)日記」(関屋 春原孝寛蔵)にみられる村の定額出費規定では、伊勢御師へは一万度料(一万度御祓札)の銭五〇匹(ぴき)(五〇〇文)と御師宿泊料五〇匹である。つぎに毎年定例のものとして榛名山・御嶽山・諏訪山と塩田神主(小県郡塩田の生島足島(いくしまたるしま)神社)にそれぞれ銭二〇匹、毎年ではないらしいが津島・碓氷(うすい)(碓氷峠の熊野権現)・不二(ふじ)(甲斐吉田の富士浅間(せんげん))の各御師二〇匹ずつであった。また、三峯山(みつみねさん)(武蔵秩父(ちちぶ)の三峯権現)へは、「御犬三匹飼料(かいりょう)とも」として金三分と高い。
三峯信仰は御眷属(ごけんぞく)の狼(おおかみ)(山犬)の霊力をあがめ、講はその御眷属(の護符(ごふ))を一年ごとに拝借する。御眷属一匹の威力は五〇戸におよぶという。三峯講へは御眷属の護符が渡されて講員各家に配られ、火災・盗難よけに母家(おもや)や土蔵の戸に張り、害虫よけに竹や萱(かや)にはさんで田畑の畔(あぜ)にさす。関屋村の御犬三匹分というのは一五〇戸相当分の護符セットということになろうか。ちなみに、三峯山からの御眷属の拝借は、文政八年(一八二五)約五千匹、安政五年(一八五八)一万匹余にのぼったという。
ここには出てこないが、大山石尊(おおやませきそん)権現(神奈川県伊勢原市)の御師も信濃に入って講づくりをすすめた。大山信仰は、明治の神仏分離後には大山阿夫利(あふり)神社が中心になるが、近世には山頂の石尊社と中腹の別当大山寺とが中心で、両者が結合した石尊不動が迎えまつられる。雨乞いの神、農業の神、災害防除の神であるとともに、職人・商人の商売繁盛の神でもある。江戸をはじめ関東各地に講組織がひろがり、「大山詣で」の季節には群衆が雑踏するほどにぎわった。信州への浸透をしめす現存の石尊権現碑は東信(佐久・小県)に圧倒的に多いが、中南信・北信にも入りこんでいる(細井雄次郎「石尊山と石尊信仰」)。長野市域では、岡田村(篠ノ井)に「大山石尊太神」碑、今里村(川中島町)に無銘の自然石だが「石尊大権現」としてまつられた石がある(『長野市の石造文化財』)。また、丹波島村(更北)に石尊講が存在した。
寺社の御師・神主・僧侶の巡村はおおむね温かく迎えいれられたが、嫌われたものに普化宗慈上寺(ふけしゅうじじょうじ)(高崎市)の虚無僧(こむそう)がある。俗衣に筒形の編笠(あみがさ)を深くかぶり、掛絡(から)を前につけ、尺八を吹いて門(かど)に立ち、ゆすりがましく布施を強要した。村々はたまりかねて取り締まりを訴える。弘化三年(一八四六)、慈上寺の「松代宗役」雅暁(がぎょう)から「以後は年に一度初穂料四〇〇文、見廻り料一〇〇文に限り、雅暁が一手で収納する。ほかの何者が行っても渡さぬよう」との一札が、水内郡北長池村などに渡された(北長池区有)。嘉永四年(一八五一)には、「慈上寺取締役」の北原村(川中島町)松尾栄助が、「当国普化宗取り締まりを青梅(おうめ)(東京都青梅市)の鈴法寺(普化宗活総派本山)番所より委嘱された。以後定例の穀代のほかはいっさい無心させない。万一虚無僧らに不法の所業があったらすぐお知らせ願いたい」との一札を水内郡津野村(長沼)などの村々へ渡した(津野区有)。取り締まりはなされたが、慈上寺はかなりの金額の布施料を毎年やすやすと入手できるわけである。なお、虚無僧らの専横が目にあまったため、幕府は弘化四年に従来の普化宗の特権待遇を廃し、単なる臨済宗の一派として取り扱うことにした。