文政四年(一八二一)正月、南堀村(朝陽)の森山佐五兵衛は、伊勢および京都への永代代参講(えいたいだいさんこう)を発起(ほっき)し、村中全戸約五〇人の賛同を得た。その基金をつくるため、同月佐五兵衛自身が金二朱と帳面代として銭六〇文を出し、加入者から「寄付」を募り、分限に応じた銭三文から三六文の範囲での拠金があり、金一分と銭五四〇文が集まった。翌五年以後も年々拠金を集め、この間の貸し付け利金も加えて文政十一年には金二二両二分余を蓄積できた。こうして翌十二年、村民二人に金一両ずつを渡して代参に送りだした。この基金管理は佐五兵衛から名主に移され、嘉永六年(一八五三)末には三四両余になっており、代参の送り出しは順調に継続した(「伊勢・京都永代御代参講人別」南堀区有)。
南堀村の代参基金は、一定の金額を確保したあとは貸し付け金として回転し、その利金を得るという方法で維持され、代参の継続を可能にした。村々の伊勢講で多くみられた資金維持の一類型である。これにたいして、いまひとつ多くみられた類型は、伊勢講の田畑を所持、運営する方法である。水内郡下越(しもごい)村(吉田)では、村の嘉左衛門が高七斗九升三合の田地を伊勢講に寄付してくれた。そこで講中熟談のうえ、この田地を希望者の鬮(くじ)に当たったものが借りうけて小作し、その作徳(小作料)で年々の代参費をまかなうことにして運営してきた。このように伊勢講として田畑をもち、その小作料を代参費にあてるという方法もひろくみられるものであった。
二つの基金維持方法には一長一短があるが、右の下越村では安政三年(一八五六)、小作料取得方法が行き詰まった。諸雑用が年々増えてきたせいでもあるが、とくに鬮(くじ)に当たったものがかわるがわる小作するため、どうしても耕起・施肥などの手を抜き、だんだん痩せ地になり作徳が減ってしまったのである。このため、代参が中断するようになった。そこでまた村中熟談の結果、田地を売り払い、その代金を「廻し金」(貸し付け金)にし、その利金で代参を滞りなくつづけることを決めた。田地を売却したところ二〇両になった。これを年々一割の利子で貸しつけ、元利金は役元で管理し、代参者へ金一両ずつを渡す方法をとり、このあと伊勢講は長く存続した。
三つめの類型として、基金らしいものをもたない伊勢代参講も存在した。押鐘(おしがね)村(吉田)の嘉永二年(一八四九)からの記録がある伊勢講では、毎年一人を代参に出し、金二分を渡す。この代参費はそのつど、講員から均等額の掛け銭を集金している。嘉永二年は人数二九人、一人あたり一一二文ずつ、翌三年には人数三〇人、一〇七文ずつといった集金である。この方法は安政四年(一八五七)をもって中断した伊勢講を明治二年(一八六九)に復活したあとにも受けつがれ、規定に「一、代参掛金二分、講中一統惣割(そうわり)の事」とある。ただし、中絶原因を改善するため変えた点もあった。①一年は御旅家(おたや)参詣、翌年は伊勢参宮と隔年(かくねん)にし、ともに代参者は二人ずつとする。②伊勢代参者へは講金二分のほかに、村役元から籾三俵を遣わす。③旅家参詣者へは講金二分と役元からの金二分を渡し、都合一両とする、などの点であった(押鐘 原昭寿蔵)。どこにある旅家かは書かれていない。
右の押鐘村規定もその例だが、代参についてはたいていの伊勢講に文書規定がある。先の南堀村の代参規定は、発起した佐五兵衛が最初から提示した。①鬮に当たったものは、正月から十二月のあいだのいつでも都合のよいとき、家族の老若男女だれでもよいから参宮にいく。②伊勢御初穂は銀七匁(もんめ)五分(ふん)。この範囲内で講中の軒数分の御祓札(おはらいふだ)をいただいてくる。③「京都御盃冥加(おさかずきみょうが)」は五匁(よくわからないが京都の所定寺社への奉納分か)。④鬮当たり人は出立のとき代参金を役元から受けとる、などであった。参詣時期が年中いつでもよいとか老若男女のだれを問わず、といった自由さが目立つ。
多くみられる代参規定は、伊勢参宮から村へ帰ったときの「さか(坂・境・酒)迎え」の儀礼に関するものである。高井郡赤野田(あかんた)新田村(若穂)は寛政元年(一七八九)に、以前にあった伊勢代参講が途絶していたのを復興し、代参「定法」を決めなおした(『市誌』⑬四三四)。参宮から帰ってきたときに、村の鎮守神前で代参者・産子中(うぶこちゅう)とも神酒(みき)をいただき、この酒代として村中から銭四文ずつ集める。そのさい代参者から神酒二升五合ずつを出す。ただし、この数量は家々の事情によりなにほどでもよい。代参者への見舞いは個々でなく村中で小額の祝儀を渡す、などの規定であった。下越村の安政三年の規定では、代参者が御祝儀酒を東組へ三升、西組へ二升持参することとした。明治二年の押鐘村では、酒三升、吸い物一つ(海老(えび))、取り肴(ざかな)三種(数の子ほか手軽のもの)、大平(おおひら)五品(手軽のもの)という規定で、旅家参詣の場合も同様とするが、これらを代参者がわだけで用意するのかどうかはっきりしない。
代参人の伊勢参宮の旅は、往復二〇日間前後というのがふつうであった。往路はまっすぐに伊勢へおもむき、御師宅に滞在して内宮・外宮および朝熊山(あさまやま)・二見浦(ふたみがうら)などを順拝する。復路は奈良の諸寺社とか尾張の熱田宮・津島権現等々のうちいくつかに寄り道して帰るといった行程であった。上層百姓・町人などの物見遊山(ものみゆさん)をかねた旅が数十日から、ときとして百数十日といった行程になるのにくらべると、中下層民をふくむ一村伊勢講の代参の旅は概してつつましいものであった。