江戸中期以降の一八世紀から一九世紀へと、諸社の御師(おし)・神主の巡回と講の結成も、村から諸社への参詣も増大するなかで、新たに勧請(かんじょう)された神々の社(やしろ)が増す。ただし、社といっても幕府も藩も新規の神社の創建をきびしく規制しているから、規模の大きな社殿をしつらえることはむずかしく、多くは小社や石祠(せきし)、石塔など外見はささやかな奉祀(ほうし)になる。そのいっぽう、既存の神社においては、修造・再建のたびに立派になるものが多く、新たに拝殿・鳥居・石垣などを造築する動きもひろがり、江戸前期とくらべると中・後期の神社造営は面目を一新するといってよい。
文化十三年(一八一六)に書かれた今里村(川中島町)の「南方(みなかた)神社并(ならびに)諸末社棟札(むなふだ)記」(今里 堀内武夫蔵)は、村内諸社の再建・修復および新規勧請の年月を記録している。村の産土(うぶすな)社は南方(みなかた)神社(諏訪上社、別に諏訪下社がある)で、除地(じょち)高一石一斗余、「勧請年月不知(しれず)」であるが、寛保(かんぽう)二年(一七四二)焼失した本社拝殿を再建、享和(きょうわ)元年(一八〇一)にも焼失本社拝殿を再建した。また、寛政三年(一七九一)鳥居一宇を建立、享和三年神像二点を奉納、文化元年(一八〇四)境内末社の天満宮と稲荷明神・三宝荒神(さんぽうこうじん)の相殿(あいどの)をそれぞれ再建した。ほかに再建、増築されたものに、文化十二年の飯縄(いいずな)明神、同十三年の天幕(天白(てんぱく))社(祭神素盞嗚命(すさのおのみこと))などがあり、以後も幾度か再建している。また、田中社(祭神事代主命(ことしろぬしのみこと))は「勧請年月不知」だが、再建または修復したときの棟札(むなふだ)が天正(てんしょう)十一年(一五八三)をはじめとし、元和(げんな)・寛永・慶安・元禄・宝永・享保(きょうほう)・宝暦・天明・文化と残っていると記録され、追記によると弘化五年(一八四八)にも前年の善光寺地震で流失して再建している。
これらの再建・修復社にたいして、新規に勧請された社としては、まず安永五年(一七七六)の秋葉権現(あきばごんげん)があり、三月二十四日に初祭りを営んだ。この秋葉社は文化二年に再建、大風破損のため文化七年にも再建した。つぎに新勧請されたのは文化十年の金毘羅(こんぴら)大権現で、毎月十日を祭日とした。秋葉と金毘羅とは村による勧請であるが、文化十四年に水内郡東条(ひがしじょう)村(若槻)から勧請した雁田(かりた)八幡宮は神主の発願(ほつがん)による。神主の発願によるといっても、村役人の了解のもとで、これは村の祭りに仲間入りしたと思われるが、文政三年(一八二〇)建立の「氏社中心霊神」は神主の発願のうえ、堀内一門が「御祭須(さいしゅ)番」を勤めて奉斎した。
いま一例、清野村(松代町)の文政五年(一八二二)「離山(はなれやま)神社永代(えいたい)御記録」(清野 離山神社蔵)をみよう。離山神社は、伝承では永正(えいしょう)年間(一五〇四~二一)清野氏が鞍骨(くらほね)城を築いたとき鬼門よけとして創建したという。祭神は諏訪上社の健御名方命(たけみなかたのみこと)、下社の八坂斗売命(やさかとめのみこと)である(『町村誌』北信篇)。ここに多くの末社もあった。
まず、本社の造営過程をしめすことがらを、明和年間(一七六四~七二)まで拾って列記してみよう。延宝三年(一六七五)手洗水鉢(ちょうずばち)寄進、同六年本殿再建、元禄十五年(一七〇二)長割橋五一段および短割橋建立、同年石灯籠(いしどうろう)一対寄進、宝永四年(一七〇七)鳥居再建、宝永年中拝殿を移し本殿前に再建、宝永五年影向殿(ようごうでん・えごう)を建立。享保十一年(一七二六)金(かね)灯籠一対寄進、寛延三年(一七五〇)夜灯籠一対寄進、同四年社頭を惣修復し、拝殿を再建。棟札によると、清野村本郷と村内の新馬喰町(しんばくろうちょう)・離山・越・五反田など枝郷のほか、松代城下町の馬喰町・紙屋町・竹山同心町・竹山町・清須町などが奉加している。以下のさまざまの寄進も、これらの町村に住む志願者によるものが多い。ただし、なかにはもっと遠方からの寄進もまじる。
寛延三年御簀(みす)寄進。このころから近衛元照(基煕(もとひろ)か)染筆の鳥居額など三額、懸鈴(かけすず)一振り、神鏡計二面、神楽(かぐら)鈴一振り、幟(のぼり)計八本、絵馬一額などの寄進があいつぐ。宝暦三年(一七五三)鳥居再建、鳥居額寄進、翌四年影向堂前布幕、本殿幕一張と幕入れ箱寄進、明和四年(一七六七)ごろ本殿金幣帛(きんへいはく)を勧請、本殿内陣の金萠御幌(きんもえみほろ)懸け替え、初重檀(しょじゅうだん)の水引寄付、明和六年(一七六九)神楽殿・影向堂再建、三十六歌仙絵馬・檀鏡一面などが寄進された。
このように、本殿をはじめ拝殿・影向殿・橋・手洗鉢・鳥居・灯籠など諸建造物の結構がととのえられて外観をあらためるいっぽう、社殿内では鏡・鈴・御簀・絵馬・幕・幣帛・御幌などが飾りつけられ、神社の姿は江戸中・後期を通じて大きく変わってくる。
離山神社のこうした変化と併行して、新規に勧請された神社も多かった。元禄八年(一六九五)岡地社熊野宮を勧請建立、正徳五年(一七一五)伊勢内宮を勧請建立した。新勧請とはやや異なるが、これより以前に社林に勧請してあった若宮八幡宮を正徳五年離山神社境内に移して建立、また享保四年(一七一九)これまで板宮だった浮島大明神を石宮にあらためて建立した。寛保(かんぽう)三年(一七四三)には、正八幡宮・稲荷大明神・秋葉大権現・飯縄大明神の四社が勧請された。年次不詳だがおよそ寛延から宝暦のころ、天満宮一社、稲荷大明神二社、愛宕(あたご)大権現一社がそれぞれ勧請建立された。これらの神社はその後、修復再建が重ねられている。明和年間以前までにおおむね一〇社もの新社が勧請されたのであった。
今里一村と清野村の離山神社についてやや具体的にみてきたが、ここで明らかなような既存の神社の面目一新と新勧請社の増大とは、どこの村・町にも一般的にみられた動向であった。たとえば既存社の造営・荘厳(しょうごん)化では、善光寺上西町に鎮座してきたものの社殿がなかった市神(いちがみ)宮に、文化六年(一八〇九)善光寺町香具(やし)商人仲間が「御宮殿」を寄進奉納したいと、神主斎藤惣太夫に願い出、上西町の同意を得て実現した(更北青木島町 露木彦右衛門蔵)。また、権堂村(鶴賀権堂町)村役人は安政二年(一八五五)、村の秋葉神社へ「秋葉大権現御金印(じるし)」と「同前立(まえだち)尊像」を勧請遷座したいと秋葉寺(静岡県周智郡春野町)へ願い出、冥加(みょうが)金三両を奉納して認められた(箱清水 永井幸江蔵)。秋葉神社自体は文政ごろ名主永井善左衛門常隆が村を代表して秋葉山から勧請したと伝えられている(『権堂町史』)が、それをさらに霊験あらたかなものに高めるべく金印と前立尊像を勧請したのであろう。
新勧請社では、今里・清野両村にも登場した秋葉・金毘羅・稲荷・天神(天満)、それに津島などは、江戸中・後期にとくに勧請数の多かったものである。たとえば、上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)の川中島斗売(とめ)神社の境内へ、明治三十九年(一九〇六)の政令で村中から集められた社は津島社・天満宮・金毘羅宮・秋葉社であったし、同村の養蚕神社境内に集められた社には稲荷社・秋葉社・金刀比羅(ことひら)社があった(『上氷鉋誌』)。これらの新勧請社は、先にもふれたように、小社・石祠・石塔などの形態でまつられたものが多かった。