江戸後期の神社をめぐる動きとして見逃せないことに、式内社(しきないしゃ)の指定を求める動きと、村の神社の社号・社格を高めようとする流行のようになった動きがある。
江戸時代には、儒教・仏教の影響をうける以前の日本固有の古道(「神(かん)ながらの道」)を明らかにしようとする、賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)らに代表されるような国学が興隆し、その思想は江戸中期以降各地にひろがった。また、国学ともかかわるが、仏教から脱して神道(しんとう)の主体性回復を求める神道各派の動きが高まる。とくに一五世紀後半につくられた吉田神道(唯一宗源(ゆいいつそうげん)神道、唯一神道)は、江戸時代になると京都吉田神社の地を本拠とする吉田家(卜部(うらべ)氏)が主導して神道界の一大勢力となる。幕府が寛文(かんぶん)五年(一六六五)の「諸社禰宜(ねぎ)神主法度」で白張り以外の装束を着けるときは吉田家の許し状をうけると定めたこともあって、吉田家は神祇道管領(じんぎどうかんれい)を称し、神社神職の宗家としての地位を確立し、全国の神職は上京して吉田家から神道裁許状や宗源宣旨(せんじ)をうけるようになった。
こうした動きを背景に、一〇世紀に成立した『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(じんみょうちょう)が、古式を尊ぶ神道界で典拠として高い地位を占め、ここに載る神社は「式内社(しきないしゃ)」として社格を誇る風潮が生まれ、わが社が該当すると主張する神社が争って吉田家に公認を申請するようになった。神名帳には、長野市域にかかわる四郡では更級郡一一社、埴科郡五社、水内郡九社、高井郡六社が記載されている(『信史』②二八五~二八六頁)。
これらの式内社に該当すると考える神社(神主・氏子・村役人)は、それまでの社名を式内社名にあらためる申請を吉田家に出した。そのさい、数十両から一〇〇両もの志納金を差しだす。だれがみても問題のない神社はすんなりと承認された。長谷(はせ)神社(篠ノ井塩崎)・美和(みわ)神社(三輪)・妻科(つましな)神社(南長野)・風間(かざま)神社(大豆島)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社(松代町)・伊豆毛(いずも)神社(豊野町)・武水別(たけみずわけ)神社(千曲市)・治田(はるた)神社(同)・波閇科(はべしな)神社(同)・佐良志奈(さらしな)神社(同)・坂城(さかき)神社(坂城町)などはそうであった。たとえば、風間神社は文政五年(一八二二)吉田家から宗源宣旨(そうげんせんじ)をあたえられて公認された(『町村誌』北信篇)。
しかし、その他のかなりの神社の場合には、申請する神社が二社、三社とあって争いあった。論社(ろんじゃ)という。一例をみよう。
寛政六年(一七九四)、更級郡真島村(更北真島町)の蔵王(ざおう)権現神主吉田筑前は、蔵王権現を延喜式内社清水神社の社号にあらためたいと吉田家に申請した。そのさい、蔵王権現を清水神社と改称することに「差し障りなし」とする同意書を、更級郡内の現長野市松代町・川中島町・真島町・小田切・篠ノ井・信更町、千曲市、信州新町、坂城町域の四〇ヵ村の神社の神主四〇人の連印を得て提出している(真島 清水神社蔵)。
ところが、清水神社号については強力な論社が二つあった。ひとつは力石(ちからいし)村(千曲市)、いまひとつは田野口村(信更町)にある。清水神社の社号は、一〇世紀にできた辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(和名抄(わみょうしょう))に載る清水郷に存在したことに由来するとみるのがふつうだが、清水の地名は力石にも田野口にもあり、ともにゆたかな湧き水があった。こうして三村の三社は幕府寺社奉行所にも訴えて争ったが、けっきょく内済にもちこまれた。その結果、寛政九年(一七九七)七月、吉田家は三神社に等しく清水神社号を許す宗源宣旨を発行した。吉田家は三社からの志納金を収納できる。真島村蔵王権現宛の文面をしめすと、左のようである(真島 清水神社蔵、読みくだしにあらためる)。
宗源 宣旨
蔵王権現 信濃国更級郡真島村
右宜(よろ)しく清水神社と称し奉るべき旨、神宣の状件(くだん)の如し、
寛政九年七月十四日 神部壱岐宿禰(いきのすくね) これを奉(うけたまわ)る、
神祇道管領長上正三位侍従卜部朝臣(うらべのあそん)良連
これに似た経緯のすえ、二社・三社の論社が、いずれも吉田家の宗源宣旨を得た例はほかにも多い。水内郡の守田神社は『延喜式』のほかに、祭神の守達神が貞観(じょうがん)元年(八五九)従(じゅ)五位下を、同五年(八六三)従五位上を、同七年(八六五)従四位下を授けられたことで知られる古社であるが、古間村(七二会)の守田神社、穂保(ほやす)村(長沼)の守田神社、北高田村(古牧)の守田廼(もりたの)神社が、宝暦六年(一七五六)吉田家から宗源宣旨を得て社号を許された。水内郡粟野(あわの)神社は同郡上野(うわの)村(若槻)と石村(豊野町)の両社が天明六年(一七八六)に許され、頤気(いき)神社は小島田(おしまだ)村と西寺尾村の双方に天保十二年(一八四一)に許された。
以上の式内社争いもその一環であったといえるが、江戸中・後期には旧来の諏訪社・伊勢社・八幡社といったありふれた社名を、より格式の高そうな社号にあらためようとする風潮がひろがった。神社の神主・氏子と村は一体となって、志納金を積んで吉田家に願いだした。たとえば、水内郡平林村(古牧)は文政十三年(一八三〇)、村の産土(うぶすな)社の諏訪社を安達(あだち)神社に改称する許司を得て、記念に盛大な祭礼を営んだ(『平林若者連永代記録』)。同郡小島村(柳原)は安政二年(一八五五)、吉田家へ金二〇両を包んで鎮守の諏訪社を水内坐一元(みのちにいますいちげん)神社にあらためた(小島区有文書)。同郡中越(なかごい)村(吉田)は文政八年(一八一一)松代藩役所に、「村の産神(うぶがみ)は往古芋井守中古衣(いもいのもりなかごい)神社と称したと伝える。今回、社号を吉田家に申請するため神主を上京させたい。式内社号ではないし、郡中の他社に差し障る社号でも毛頭ない。吉田家への御添簡(おそえかん)をいただきたい」と願いでた(中越 宮下文雄蔵)。同年、吉田家から芋井森中古衣神社の社号を許された(『町村誌』北信篇)。
こうした社号改称の例は村々にきわめて多く、こんにちの神社名になっている。これらのうち『町村誌』などに、吉田家の允許(いんきょ)を得た改称年次を明記してあるものだけをしめすと、表8のようである。年次不詳だが江戸時代の改称という神社はほかにも多い(『市誌』⑧・⑨旧市町村史編参照)。さらに明治維新後にも、吉田家でなく松代藩や長野県などへ出願するようになるが、格式ある社号を求める改称の流行はつづいた。もっとも、社名は昇格しても、祭神がかわるわけではないから、旧来の諏訪社・八幡社などとしての祭礼はそのまま存続する。