神葬祭

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仏教にたいする神道復権の動きは、一九世紀に入って死者の葬礼を神道によって営む神葬祭(しんそうさい)の復興を求めることにもあらわれた。神葬祭を営むということは、これまで寺檀(じだん)制で属していた檀那(だんな)寺から離脱することになるから、檀那寺の承認、また領主役所の承認を必要とする。寺院が承認を拒(こば)んで紛糾することもしばしばあった。

 文化十年(一八一三)四月、塩崎知行所更級郡今井村(川中島町)の神明宮(しんめいぐう)神主宮島隼人(はやと)は代官に、「私どもは吉田家から自身葬祭の免許状をうけた。神職にて事済むよう願いどおり仰せつけられたので、宗門御改めの寺判を離れ、吉田家の門葉に相違ない」との一札を差しだした。割番・組頭らが奥印している。一度ならず宗門改めのさい提出したらしく、文政三年(一八二〇)四月提出の同文の文書(もんじょ)もある(『小林家文書』市立博物館蔵)。

 右と同様に、神主当人の離檀(りだん)願いは比較的スムーズに寺の承認を得られたが、さらにすすんで嫡子(ちゃくし)も神葬祭にしたいと願いでた段階では、寺が拒んで紛糾した例が多い。更級郡赤田村(信更町)専照寺の檀家の赤田村宮原大和(やまと)以下三水(さみず)村・山平林村・氷熊村・田野口村(信更町)、山布施村(篠ノ井)の六神主が願いでた離檀は、寺から強硬に拒否された。けっきょく文政八年に歩み寄って妥結し、六神主と仲介人二人の連判一札が専照寺へ渡される。一札によると、神主当人の神葬祭はこれ以前に認められていたが、嫡子も神葬祭にしたいという動きが松代領分神主一統でおこり、各郡で寺の承認を得たところも出た。そこで、神主六人が文政元年に先代住職に願いでたが拒否され、やむなく松代藩職(しょく)奉行所へ訴え、双方がよびだされて吟味をうけたが、先代住職は拒否をかえず、幕府寺社奉行所へ出訴しようとした。職奉行も断念し、住職が遷化(せんげ)(死去)したとき檀那寺へ縋(すが)るのがよかろうと内意をしめし、時期を待つことになった。このたび新住職と再折衝し、「御慈悲をもって先規に准(じゅん)じ、嫡子一人は代々神葬祭にて執行すべしとの証文を頂戴した。然るうえは、今後家内妻子などについてお願いすることはしない」と誓約している(信更町 専照寺蔵)。

 水内郡牧田中(まきだなか)村(信州新町)興禅寺と山上条村(同)安養寺の檀那である更級郡竹房村・中牧村・根越村・牧之島村・大原村(信州新町)と水内郡水内村(同)の七神主が求めた離檀も、すでに当人は認められ、嫡子の承認を願ったものであるが、これも紛糾した。寺がわは「寺檀関係を保ち宗判(しゅうはん)(宗門改めの証印)にあずかるは私事に非ず、公儀の御規則、新規の例格をたてるは迷惑」と主張してゆずらなかった。職奉行所が「当人および嫡子一人に限り認めてはどうか」と説得したのにたいし、両寺は「吉田家許し状は当人のみにて嫡子をふくまず」と抵抗したが、けっきょく「当人および相続すべき嫡子に限る。以来嫡子は出生より神葬祭。ただし妻・女子はもちろん次男以下はすべて寺檀の礼を乱さず」との合意が成立して、文政十二年、御吟味取り下げ願いを職奉行所へ差しだした(七二会 佐々木幸雄蔵)。

 神葬祭が認められたものは、宗門人別改め帳で別記される。文久四年(元治元年、一八六四)の松代領水内郡押鐘(おしがね)村(吉田)宗門人別御改御書上帳(押鐘 原昭寿蔵)をみると、帳の末に、

  一、吉田葬祭免許

    一、年三十五  万刀美神社神主 原近江(印)  年七十一  父 原田守   年四ツ  子 原主税(ちから)

       〆人数三人 男   家内禅宗

とある。神主当主・前当主・嫡子を神葬祭として記し、その他の家内は禅宗寺院の檀那として記載された。明治維新のあとになると、神主は家内もろともに神葬祭を願いでて許可される。明治元年(一八六八)十二月、宗門改めにあたり今井村神明宮神主宮島長門守(ながとのかみ)は、自身と長男・母を「先般御届け申し上げ置き候通り、私ならびに家内に至るまで神葬祭に相改め候」との一札を提出した(篠ノ井塩崎 片山貴蔵)。

 神葬祭の礼式は吉田家の定めた規式により営まれる。寛政五年(一七九三)、更級郡川合村(更北真島町)の諏訪大明神神主宮沢伊予(いよ)は、吉田家から「神道葬祭略次第」を拝領した(真島 宮沢省吾蔵)。

 なお、伊那郡のように平田派国学が深く浸透した地域では、神主ばかりでなく一集落の住民がみな寺院から離檀して神葬祭になったところがあったが、長野市域には神主家以外の例は見当たらない。