寺領と寺請制

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更級郡八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社、千曲市)は、武田・上杉時代に寺領を寄進されていた。森忠政も慶長七年(一六〇二)八幡(やわた)郷内一〇〇石の地を寄進し(『信史』⑲三五七頁)、かわった松平忠輝領でも同九年、大久保長安が八幡村内一〇〇石を寄進した(同五八七頁)。この一〇〇石はともに神主あての分で、別に神宮寺別当あての一〇〇石があったはずである。慶安元年(一六四八)から二年、三代将軍徳川家光は全大名・旗本に領知安堵(あんど)状を出すとともに、寺社領の朱印(しゅいん)安堵状も発給する。八幡宮へは同元年二月、「先規により二〇〇石を寄付する」旨の朱印状をくだした(『松田文書』、『新史叢』⑭五四頁)。家光朱印状により確定した寺社領へは、以後将軍代替わりのつど安堵朱印状が発行される。ちなみに、江戸時代に朱印が使えたのは、京都朝廷を除けば、将軍および前将軍の大御所だけである。

 八幡宮領と同様に、それに先だつ寄進寺社領をもとに、主として慶安二年に朱印安堵状を発給された寺社が市域にもある。一例として松代町大林寺のものをあげると、左のようである(同前書)。

当寺領信濃国埴科郡西条村の内七拾石の事、先規に任せ、これを寄附(きふ)し畢(おわ)んぬ、全く収納すべし、并(ならび)に寺中山林竹木諸役等免除、有り来たる如く永く相違有るべからざる者也(なり)、仍(よ)って件(くだん)の如し、

    慶安二年八月廿四日 御朱印(徳川家光)

          大林寺

 このような将軍の領知安堵状をもらって朱印領が成立した市域の寺院は、表9のようである。善光寺領を除けば松代領に属していた寺のみで、他領からの寺はない。これは、寺が慶安朱印状を申請するにあたって、松代藩が「大林寺領七拾石先規より収納仕(つかまつ)り来たり候儀紛(まぎ)れ御座なく候、我等知行所に御座候へども、拝領高の外に御座候、今度朱印を以て頂戴仕り候様に頼み奉り候」(『松代町史』下)といった申請添状(そえじょう)を数多く寺社奉行へ差しだした結果といえる。他領では幕府領や一部の私領を除くと少なかった。この大林寺の場合、添状は「先規から藩の拝領高以外の土地で、寺領に相違ないので朱印状をあたえていただきたい」とするが、じっさいには大林寺は元和八年(一六二二)の真田氏入封(にゅうほう)のとき小県郡房山(ぼうやま)村(上田市)から移した寺である。長国寺・大英寺も同様で、先の八幡宮領や善光寺領などとは違って、真田氏以前の歴代領主の寄進寺領があったわけではないが、松代藩の申請添状は有効だったのである。


表9 長野市域の朱印寺領

 朱印領をもつ寺社は、基本的には大名・旗本と同じ領主である。したがって、これまで松代領だった寺も藩から独立し、年貢・諸役の徴収をはじめ支配いっさいの権限をもつ。とはいえ、小さな朱印寺領で独立支配をおこなうことは不可能だから、じっさいには治安・警察機能をはじめ大幅に松代藩に依存した。

 幕府から領地をもらう朱印寺領にたいして、領主から除地(じょち)(年貢・諸役免除地)をもらう寺が多かった。領主の黒印(こくいん)をおした状をもらうことから黒印領ということもあるが、しかし、これは領主の拝領高のうちである。松代藩の黒印領には、長国寺領二〇〇石、大鋒寺(だいほうじ)領一〇〇石、高野山(和歌山県)の蓮花定院(れんげじょういん)領一〇〇石(代金渡し)、伊勢広田御師領二〇〇石(同)など大きな高もあるが、村々にある寺の除地の大部分は一石内外で、五石をこすものはまれであった(「信濃国旧高旧領取調帳」『県史』⑨)。除地は自作をしたり小作に貸しつけたりする。

 寺院は知られているとおりキリシタン禁圧に利用される。寛永年間(一六二四~四四)には、北信にも各地にキリシタンがいた。島原の乱が収束した寛永十五年(一六三八)、松代初代藩主真田信之(のぶゆき)は国元の重臣にたいして、「吉利支丹御法度(きりしたんごはっと)の儀、いよいよきびしく仰せつけられ候間、我等領分百姓以下なお五人与(くみ)を相改め、堅く申しつくべく候」と指令した(『信史』27三〇八~三〇九頁)。この年、松代領民三人が江戸幕府へキリシタン訴人(そにん)をおこない、金子一〇〇〇枚の褒美をもらっている(同前三〇九頁)。

 これより先、幕府は寺院統制を強め、寛永九年(一六三二)から十年、諸宗本山に命じて寺院本末帳(ほんまつちょう)を作成、提出させた。同十二年には寺社奉行を設けて、寺社および寺社領に関する行政・裁判を中心に、僧尼(そうに)・神官の監督をおこなわせた。そして寛永十七年、幕府直轄(ちょっかつ)領に宗門改め役を設けてキリシタン取り締まりを強める。全国の諸私領にわたる宗門改めは、寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)ごろに本格化した。寛文四年、幕府は諸大名に、専任役人をおいて宗門改めを毎年実施するよう命じている。

 寺請(てらうけ)制度は、このような宗門改めを徹底するためにとられた方法である。農工商はもとより武士・僧侶(そうりょ)・神官から被差別民にいたるまで、いずれかの寺院の檀那(だんな)とさせ、寺院に責任を負わせてキリシタンでないことを証明させた。信濃の寺請制度は、おおむね寛永末年から寛文年間にかけて徹底してきたと考えられる。寺請制度を基礎とした宗門人別改め帳の作成は、信濃では慶安年間(一六四八~五二)の飯田藩・松本藩が早く、松代藩などではおくれた。松代藩の宗門改め帳の初見は延宝九年(天和元年、一六八一)だが、しかし、宗門改め帳と題する帳の作成はつづかず、初期からつくられてきている「人詰(にんづめ)改め帳」が領民掌握の機能を果たした。松代藩で宗門人別改め帳が本格的に作成されるのは江戸後期に入ってからである。むろん、宗門改め帳が作成されなくとも松代藩の寺請制度やキリシタン禁圧が甘かったわけではない。

 寛文四年、幕府は転(ころ)びキリシタン登録制を布達した。貞享(じょうきょう)四年(一六八七)にこれを強化し、転びキリシタンの血統五代におよぶ類族(るいぞく)改めを制度化し、本人から四親等の親族は住所・職業などを登録させ、年二回の生活状況報告、引っ越しのさいの即時報告を義務づけた。信濃の転びキリシタン類族は、松代・飯山・小諸・高遠・坂木各藩領や甲府徳川領・善光寺領などに存在した(『県史』通史編④)。

 松代藩は貞享四年、類族改めを実施して「類族宗旨御改め帳」をつくった。そのひとりの城下鍛冶(かじ)町に住む転びキリシタン才三郎の類族帳には、本人とも六三人が登録され、一人ひとりの宗旨、檀那寺、年齢、才三郎との血縁関係、職業を記し、死者についても法名・死去年を記す。末尾に各人の檀那寺が証判をおしている(『県史』⑦一〇四)。類族改めは規定の血統が絶えるまでつづく。元禄十二年(一六九九)に才三郎の孫りつの倅(せがれ)才二郎の出奉公を家老が許可し、このことを幕府へ届けた記事があるなど、元禄・宝永年間(一六八八~一七一一)から享保(きょうほう)年間(一七一六~三六)ごろにかけて転びキリシタン関係の記事が「家老日記」にもしばしば出てくる(「家老日記」『松代真田家文書』国立史料館蔵)。さらに類族の子孫は幕末にいたるまで監視される。