寺入りと寺の執り成し

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近世の寺院は、幕藩領主の宗教統制下に支配の一端をになう役割を負わされたが、しかし、そのいっぽうで地域や村落社会に種々の役割を果たして貢献した。各派仏教の宗教行事に檀那を引きこんだり、念仏講・地蔵講・観音講など講社を組織したりしたのはもちろん、村としての年中行事にも四月八日の釈迦(しゃか)誕生日、七月十三日から十六日のお盆をはじめ、寺が深くかかわるものが位置づいていた。また、僧侶の学識を生かして寺子屋師匠をつとめたものも多く、地域に学芸や詩歌俳諧(しいかはいかい)その他の文化を導入する先頭に立った寺僧も少なくなかった。

 さらに、苦難に直面した村びとを助ける場面として、火事を出したときの「寺入り(入寺)」、領主や村役人から罪を咎(とが)められた村びとに寺が縋(すが)られておこなう「執り成(とりな)し」などがひろく存在した。

 火事については、火附(ひつけ)(放火)は幕府法・藩法を問わず火罪(かざい)(火あぶりの刑)である。松代藩が八代藩主真田幸貫(ゆきつら)のとき刑罰規定を集大成した文政七年(一八二四)の「御仕置(おしおき)御規定」(『野本家文書』長野市博蔵、写真16)には、火を付けたもの、あるいは人に頼み付けさせたものは火罪とある(頼まれて放火したものは死罪)。盗みを目的に放火したものは、城下八町引き回しのうえ火罪、盗む気はなく放火したものはその町村を引き回して火罪という規定であった。


写真16 文政7年(1824)御仕置規定(『野本家文書』長野市博蔵)

 不注意から失火した火元人の場合は、重科には問われない。とはいえ、近隣にも火消しに駆けつけた人びとにも迷惑をかける。類焼を招けば余計そうで、本人も居たたまれない思いにかられる。このときおこなわれるのが寺入りであった。寺は檀那の寺入りを受けいれ、間違いなく入寺したことの保証責任も果たす。

 火事が発生すると、村役人は領主役所に急報し、出役(しゅつやく)が駆けつけてきて現場検証をする。主眼は放火か否かにある。放火でない見極めがつくとその証言を関係者から口上書で提出させる。一例だが、元治(げんじ)元年(一八六四)六月、更級郡塩崎村上篠野井(かみしののい)組(篠ノ井)茂平次の物置から出火し、類焼におよんだ。吟味のうえ、茂平次は老衰のため倅(せがれ)の久助とその女房が口上書を書いた。「昨夜九ッ(一二時)ごろ出火し、見廻り中の夜番友作らが気づいて大声をあげ、大勢駆けつけて消してくれたが、南風がはげしく水の手は悪く、隣家兵吉の物置も焼失してしまった。昨夕茂平次が物置の軒下で煙草(たばこ)を一服し、私も付き添い念入りに吸いがらを始末したつもりだったが、ここから火が出た。意趣遺恨(いしゅいこん)をうけることはなく、付け火の形跡もない。不行き届きゆえの自火に相違ない」と詳細に記し、久助が押印、女房が爪印(つめいん)した。類焼人兵吉も自火に相違なしとの口上書を書き、つづいて茂平次の親類・組合代表、兵吉の組合代表、夜番見付け人友作・吉蔵、篠野井組の組頭・庄屋代の各口上書が書かれ、以上の最後に割番代風間和助が自火に相違なしと奥書印形して差しだした(『赤沢家文書』市立博物館寄託)。

 塩崎陣屋からの出役はこれで引き上げ、出火人への格別の処罰はなかった。しかし、老父茂平次にかわって久助が寺入りした。檀那寺に入って蟄居謹慎(ちっきょきんしん)するのであるが、おそらく出家して罪をつぐなう意味あいからきているのであろう。失火のさいの寺入りは、全国的にひろく認められる慣行である。

 寺入りはほんらい、文字に書かれないその地域その村の社会的慣習法であったから、寺入り日数の長短も状況次第でさまざまだったと思われるが、ときには紛糾して領主役所へ訴えることも生じた。松代藩は前記の「御仕置御規定」で藩としての対応を成文化し、つぎのように定めている。

① 類焼これなく入寺は七日。

② 類焼三〇軒までは一〇日。

③ 類焼三〇軒以上一〇〇軒までは二〇日。

④ 類焼一〇〇軒以上は三〇日。ただし御陰中(ごいんちゅう)は五日増し、牛馬焼死は三日増し(陰中は一般には秋をさすが、ここでは将軍や殿様などの死去による服喪謹慎期間であろうか)。

 いらい、松代藩ではこの規定により入寺させた。たとえば天保二年(一八三一)五月、山布施村(篠ノ井)の百姓が出火したとき、家老は伺いにたいし「類焼はなかったが馬一匹焼死につき、入寺日数三日を増し、差し免(ゆる)すべし」と一〇日間を職奉行へ申し渡した(国立史料館編『松代藩庁と記録』)。ほんらい村や地域の慣習法だったものが、領主の成文法にとりこまれた形である。なお、寺入りは出火以外にも数は少ないが存在した。

 寺が檀家に縋(すが)られて執り成しを果たすことは、さまざまな場面で生じた。

 飢饉(ききん)の最中の天明四年(一七八四)十一月、松代藩山中(さんちゅう)村々の小前百姓らは、藩へ上納する金銭の調達に苦しみ、酒屋をまわって金子借用を強要した(天明山中騒動)。翌五年二月、藩出役は徒党・強訴(ごうそ)の吟味のため多数を入牢(じゅろう)させた。山中一三ヵ村の村役人・頭立惣代(かしらだちそうだい)・惣百姓惣代らは、山中村々の二五ヵ寺にたいして、「牢舎(ろうしゃ)のものどもはいかなる重科に処されるか計りがたい。菩提寺様は申すにおよばず山中二五ヵ寺様にお縋りし、松代藩へ御訴訟くださるようお願い申し上げる」と訴えた(『県史』⑦一七九八)。二五ヵ寺はこれを受けて立ち、惣寺院評議のうえ四ヵ寺を惣代に立てた。

 惣代の大安寺(七二会)・長勝寺(信更町)・法蔵寺(小川村)・常光寺(信州新町)は、職奉行所と内々折衝のうえ、「村々最寄り最寄りに拙寺どもへ縋り御訴訟願い候につき罷りいで願い奉り候」と願書を出し、去年十一月の騒動時に藩出役から山中百姓へ下付された書付三通を藩へ返上した(『県史』⑦一七九九)。同月、正式に赦免願いを提出し、「強訴・徒党で牢舎のものも、不行き届きの村役人も、重き御仕置きを免れないところであるが、親類や郷中がこぞって縋り嘆くのを見捨てがたい。数百人の徒党人は意趣の次第も弁(わきま)えずに参加しただけである。村切(ぎり)(村ごと)御詮議(せんぎ)の儀はなにぶん御赦免くださるよう願い奉る」と訴えた(『県史』⑦一八〇〇)。

 騒動の発頭(ほっとう)村々とみなされた地京原(じきょうはら)村(中条村)などで、五年二月に二二人が逮捕・牢舎となったが、しだいに釈放される。地京原村の清兵衛だけが永牢(えいろう)となった(のち牢内で重病、出牢後死去)。処分が軽かったのは、騒動自体が藩権力にたてつくものでなかったせいもあるが、二五ヵ寺の赦免願も藩にとって無視できないものであったに違いない。

 寺の執り成しは、徒党・騒動といったおおごとに限らず、村の百姓らの村役人あるいは領主役所からのさまざまのお咎(とが)めにさいしておこなわれた。その事例はきわめて多い。若干の例をみよう。

 享和(きょうわ)二年(一八〇二)、里村山村(柳原)の儀右衛門は、同村の百姓を「闇討ち」にした件で村役人からきびしく詮議されて、長沼村(長沼)の菩提寺西厳寺(さいごんじ)へ駆けこむ。西厳寺は村役人へ「村方ならびに相手方へ幾重にもお詫びくだされ、内々で相済むようにと強(た)って縋ってきた。双方とも檀家のことゆえ別して見捨てがたい。当人の心得違い、村方・相手方の不満は拙寺でもらいうけたい」と申し入れ、村と相手方の了承をとりつけ、「以後双方に心得違いがあれば拙寺で引きうけて教化し、御厄介をおかけしない」と村役人に内済一札を差しだした(『北小坂家文書』大宮市 小坂順子蔵)。文化三年(一八〇六)、里村山村の要五郎は、六歳の妹を宗門人別帳から落帳させるという不始末を咎められ、菩提寺の長沼村善導寺に縋った。善導寺が奔走して松代藩から当人と村役人の無罪承認をとりつけ、村役人は藩宗門奉行所へ「善導寺がお縋り御訴訟を申しあげたところ、厚きお情けをもって当人・村役人ともお吟味流しになしくだされ、ありがたき仕合わせ」と一札を出している(同前文書)。

 文政十一年(一八二八)、千田村(芹田)村で、百姓らの発起無尽(ほっきむじん)の掛けもどし金が滞って争いになるという一件がおこった。村役人から咎められた小左衛門と親類は檀那寺の観音寺に縋った。観音寺は無尽仲間や村役人と折衝し、村役人へ「小左衛門と家内のものへ実躰(じってい)に慎むよう堅く申しふくめた。なにぶん御勘弁をもってこのうえのお糺(ただ)しはお流しくださるよう」と一札を書いて落着した(『千田連絡会文書』市立博物館寄託)。安政六年(一八五九)、塩崎村山崎組(篠ノ井)の弥左衛門は、なかみははっきりしないが「不所業」を咎められ、塩崎知行所陣屋から「吟味中手鎖(てじょう)、組合預け」を命じられた。弥左衛門は組合・親類へ「先非後悔改心仕り、いらい御上様御厄介筋はもとよりなにごとによらず神妙、家業出精仕りたく候あいだ、格外の御憐愍(ごれんびん)をもって御吟味流し成しくだされたく」と縋り、組合・親類は村役人へ嘆願書を差しだした。同時に、檀那寺の長谷寺(はせでら)に縋り、長谷寺は「まことに先非後悔しており、この節秋作取り入れの最中でもあるので、御憐愍をもって御吟味お流しくだされば重々ありがたき仕合わせ」と陣屋へお縋り願書を出して受けいれられた(『赤沢家文書』市立博物館寄託)。