教団組織に属し檀家をもち領主の宗門改めに責任を負う寺院とは別に、近世の村・町にはほとんどどこにも堂・庵が存在した。堂・庵は、村あるいは村人、ときには寺院が所持し奉斎(ほうさい)するものである。なかには、起源が中世にさかのぼるものもあり、在地有力者の持仏堂であったり惣村の共有であったりしたと考えられる。その有力なものは幕府の宗教統制がすすんだ近世初頭に、教団組織に組みこまれて寺院化した。しかし、村持ち、個人持ち、一族持ちの堂・庵として存続したものもあり、また、近世を通じて新たにつくられた堂・庵が多かった。なお、堂は僧(堂守(どうもり))、庵は尼(あま)(庵主(あんじゅ・あんじょ))が居住ないし奉斎するものをいうが、かならずしも厳密に使いわけられてはいない。寮(りょう)や院・行屋(ぎょうや)などとよぶところもあった。
元禄十年(一六九七)の『松代藩堂宮改帳』には、領内二二一ヵ村に約八〇〇の堂・庵が書き上げられている。平均すれば一村に三・六ほどの堂・庵が存在したことになる。しかし、この改め帳では、とくに里郷のなかには堂・庵を書き上げなかった村々も少なくなかったから、実数はさらに多かったはずである。
元禄十年以降に新規につくられた堂・庵も少なくなかった。『町村誌』北信篇の水内郡富田村(近世の鑪(たたら)・桜・泉平(いずみだいら)・荒安・新安五ヵ村合併)は、九つの堂・院を書き上げている。その創設年代は、年暦不詳(古代・中世と伝える)のもの三つ、近世の元禄十年以前のものでは天和(てんな)二年(一六八二)の地蔵堂、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)の薬師堂、同二年の観音堂の三つ、元禄十年以降のものとして宝永元年(一七〇四)の薬師院、正徳(しょうとく)元年(一七一一)の福寿庵、安永四年(一七七五)の地蔵堂の三つであった。幕府は寛永年間(一六二四~四四)から新規の寺社の造営・祭礼を規制し、享保十二年(一七二七)にも禁じた。松代藩など私領でもこれに追随しているが、堂・庵の場合には「かつてあったものの復興」などの名目によれば新規の堂・庵も比較的大目にみられていた。
堂・庵の所有は、元禄十年の段階では百姓個人(同族団)のものが多い。橋爪(詰)村(七二会)には八つの堂があげられているが、すべて個人持ちである。うち三つは肝煎(きもいり)の次郎右衛門持ちであり、もう一人の肝煎の勘左衛門、組頭の九兵衛、老(おとな)百姓の六郎右衛門などが各一つをもつ。同様にして、瀬脇村(同)の六堂、五十平(いかだいら)村(同)の七堂など、この近辺の村々はほぼすべて個人持ちであった。これを第一類型とすると、これにたいして第二の類型がある。吉原村(信更町)の八つの堂は須牧村・中峯村・西村など村内の枝郷(えだごう)(小集落)の名前を記す。調査によると、小集落単位、あるいは小集落内の同族団単位で奉斎されているという(市立博物館図録『村人の祈りと集いの場』)。近くの大岡村のうち宮平村なども、小集落単位で設けられている。そして第三の類型は、村中所有の堂・庵である。小出(こいで)村(若穂)の三堂のうち、大日(だいにち)堂・十王(じゅうおう)堂には「村中」と記す。
堂・庵の創建自体は、最初から村中でというものはむしろわずかで、たいていの場合個人の発願(ほつがん)と資力によっているが、これがしだいに小集落持ちや村中持ちへと転化してくる。里郷村々では元禄改め帳ですでに、村中所持が当たり前になりつつあったといえる。山中村々でも元禄以降、個人所持から村中所持へと格上げされる堂・庵が多かった。元禄改め帳のなかに貼付(てんぷ)されている付箋(ふせん)には、「文政七年(一八二四)の松代藩寺社改めのさいに、願いでて村持ちに書きかえてもらった」と記すものが、とくに山中村々に多くみられる。それ以前から事実上村持ちに移行していたものである。
また、江戸中期からあとになると、最初から村中で設ける堂・庵も出てくる。更級郡山新田村(篠ノ井)の小林惣左衛門は遁世(とんせい)を志して村を去り、高野山で出家し空誉智源となって修行した。三年後、伯父の小林曾左衛門が小庵を建てて智源をよびもどそうとしたところ、これを知った村びとがこぞって人足・資材などの提供を申し出、場所も村中相談のうえ個人屋敷地のうち六〇坪を買いとった。享保十三年(一七二八)、村人全戸が人足と銭・萱(かや)・縄(なわ)などを出しあい普請を成就した。その後も宝暦三年(一七五三)の普請などを村中でおこなっている(『県史』⑦一九八六)。
観音堂・薬師堂・阿弥陀堂など堂・庵の多くは、村あるいは小集落の中心に近い位置に建てられた。ただ、十王堂や地蔵堂には墓地に接しているものが多い。十王は冥土(めいど)にいて亡者(もうじゃ)の罪の軽重をただす一〇人の判官、地蔵はこの世とあの世の境に立ってあの世へいくものを救う。いずれも死者の成仏を祈る堂であった。
元禄改め帳の堂・庵には、二間に三間、五間に二間などと建物の規模が記されている例が多い。その規模は、とくに山中では村のどの神社よりも大きい場合が多い。この規模は、堂・庵に近隣寺院配下の、あるいは修行の旅の途上などの僧(堂守)や尼(庵主)を迎えいれて暮らさせるのに必要なひろさであるとともに、一族なり小集落の全員、村中の惣百姓などが祈りに集う空間を確保するものでもあった。そのうえ、ことあるときの集会場としても活用される。慶応元年(一八六五)九月、水内郡栃原(とちはら)村平組(戸隠村)の惣百姓は権現堂に寄り合い、ここから松代藩産物会所で暴利を得ているとみた家々の打ちこわしに押しだした(『県史』⑦一八〇八)。この場合は名主まで加わっていたらしいが、通例、村の公的寄り合いが名主宅で開かれるのにたいして、堂・庵は小作料減免を求める小作人たちとか、名主を批判する小百姓たちなど、村役人をはずした寄り合いによく使われた。
平成十二年(二〇〇〇)十月、長野市立博物館は特別展『村人の祈りと集いの場-お堂の役割を探る-』を開催し、その図録を出した。展示もそのための調査研究も市域最初の本格的なもので、数々の事実を明らかにした。堂・庵は明治五年(一八七二)の無住・無檀寺堂廃止令により、市域で四〇〇近いものが廃止され、堂守・庵主は還俗(げんぞく)した。しかし、堂・庵の建物の廃却をまぬがれ、長く地域の集会所やのちには公会堂などに用いられ、仏像・仏具・仏画・掛軸なども守って集会と祭りの場所として存続したケースが多く、こんにちにおよんでいるところも少なくない。仏像のなかには、江戸後期の善光寺仏師(長谷川氏)の制作になる名品もみられる。