江戸時代に村の神仏が増した原因のひとつに、流行神(はやりがみ)(仏)の流入、定着があった。流行神(仏)の代表的なものに御鍬神(おくわがみ)がある。志摩(しま)国の伊雑(いざわ)宮(三重県磯部町)の御師、のちには伊勢外宮(げくう)の御師が流行の背後にいた。鍬をかたどった木造の御神体を村から村へと継ぎ送り、村々で豊作祈願の盛大な祭りが営まれる。勧請(かんじょう)されて村の神々の仲間入りをし、長く祭られたところも少なくなかった。御鍬神の流行は数十年ごとにおこり、そのうち信濃へ入ってきたのは元禄十六年(一七〇三)をはじめ四、五回にわたる。しかし、いずれも中・南信の村々に祭り継がれただけで、北信には到達しなかった。
北信に到来して村々に定着したものに岩船(いわふね)地蔵がある。岩船地蔵は下野(しもつけ)国の岩船山高勝寺(栃木県岩舟町)にあるが、これが享保(きょうほう)四年(一七一九)に爆発的に大流行した。村から村へと祭り継がれたところは、上野(こうずけ)(群馬県)・上総(かずさ)(千葉県)・武蔵(むさし)(東京都・埼玉県)・相模(さがみ)(神奈川県)・甲斐(かい)(山梨県)・駿河(するが)(静岡県)、そして信濃におよんだ。佐久郡野沢村(佐久市)の豪農・文人瀬下敬忠(せじものぶただ)は、著書の『こよみぐさ』にこう書きしるした。「野州(やしゅう)岩舟地蔵念仏と申すこと大きにはやり、村々にていろいろの笠鉾(かさぼこ)・山車(だし)をひき、金襴(きんらん)どんすなどの旗を押したて、輿(こし)を飾りたてて、笛・太鼓(たいこ)・鉦(かね)なんどにて囃(はや)したて、行列して郡内を回り申し候、本尊は当時手前(瀬下家)に御座候(ござそうろう)地蔵尊を輿に入れ、かつぎ囃してあるき申し候」。村単位に受けつがれ、老若男女がはなやかな衣装をまとい、にぎやかに行列してあるいて盛大に祭り、つぎの村へと送りだす。
更級郡若宮村(千曲市)には今も路傍の高みにまつられている石の地蔵尊があり、台座に「享保四年」と明記する文言(もんごん)が刻まれている。かつては雨乞い行事に用いられ、日照りがつづくと縛って川まで運び、流水に漬けた(『戸倉町誌』歴史編 上)。
長野市域では、水内郡田子(たこ)村(若槻)の北国街道沿いにまつられた石船(いわふね)地蔵尊が有名である。石の丸彫りで石船の上に鎮座している。「享保四年亥天」と刻まれており、大流行のときに祭り継がれてきたものを勧請して石船地蔵を新置したことは明らかである。今はやっていないが、往時には雨乞いの地蔵でもあった。旱魃(かんばつ)がつづくと若者仲間がかつぎだし、村びと総出の行列で鉦(かね)をたたきながら運び、田子神社脇の清水に浸し、頭から水をかけ降雨を祈念した。雨乞い行事は途絶えたものの、石船地蔵は現在もたいせつにまつられている。花や帽子・前掛が供えられ、七月二十三日の縁日には供養の読経(どきょう)がなされて神楽(かぐら)が奉納される(『ふるさと若槻発見』)。祭礼日が村の農休み日であったことなどもふくめて、享保四年このかた二八〇余年、連綿と受けつがれてきた奉祭の姿が今もうかがえて貴重である。
市域には、ほかにも岩船地蔵流行の痕跡が少なくない(一二章三節二項参照)。
流行(はやり)神仏とも一脈通じるが、念仏行者(ぎょうじゃ)たちも尊崇(そんすう)して迎えられた。肉食を断ち木の葉や木の実を食べて修行する木食(もくじき)上人も市域に足をいれた。そのひとり木喰山居(もくじきさんきょ)(故信(こしん))は、明暦(めいれき)三年(一六五七、明暦元年ともいう)筑摩郡山辺(やまべ)(松本市)に生まれ、一三歳のとき誤って幼児を井戸に転落死させてしまった罪を感じて仏門に入る。二二歳のころから虫倉山にこもって八年間難行苦行し、更級郡赤田村(信更町)の専照寺、水内郡椿峰(つばみね)村(小川村)の高山(こうざん)寺などで修行し、高山寺の三重塔を再建し観音堂を建てた。大町(大町市)の弾誓(たんせい)寺で亡くなる。山居の木彫り仏が高山寺その他に残されている。
熱狂的に迎えられたものに徳本(とくほん)行者がいる。専修念仏(せんじゅねんぶつ)行者として高名な徳本は文化十三年(一八一六)、江戸から上州・信州へ布教の旅に出た。小諸・上田・松代をへて善光寺に滞在し、善光寺平をまわり飯山にいたる。転じて大町から松本、さらに諏訪・高遠・飯田へと巡りあるいた。布教先ではどこでも民衆が熱狂的に群参した。徳本は集まった人びとに小型の南無阿弥陀仏名号札(なむあみだぶつみょうごうふだ)を授け、念仏講には独特の書体で大きな六字名号を書いてあたえた。市域にも徳本名号を刻んだ念仏塔や念仏講の掛軸が多い(一二章三節二項参照)。更級郡小松原村(篠ノ井)では「善光寺如来徳本上人念仏講」がつくられて存続した。安政五年(一八五八)正月十六日作成の講中人別帳では、同日から当面三月二十五日にいたる毎日一人ずつの念仏勤行人(ごんぎょうにん)をとりきめている(小松原 久保田庄司蔵)。
巡りくる神仏や行者を外から村へ迎えいれるいっぽう、村から出て神仏を巡りあるく信仰の旅も江戸中後期には盛んになる。伊勢参りを筆頭に、西の金毘羅(こんぴら)権現(香川県琴平(ことひら)町)、北の出羽三山(月山(がっさん)・羽黒山・湯殿山、山形県羽黒町ほか)まで足をのばすほどにひろがる。そのなかで、しだいに盛行したものに札所(ふだしょ)巡りの旅があった。参詣のしるしとして寺に札を奉納したので札所という。札所は、平安末期にはじまった西国(さいごく)三十三所、それを模して中世に設けられた坂東(ばんどう)(関東)三十三所、秩父(ちちぶ)三十四所のそれぞれ観音霊場巡りがある。あわせて百所巡りとなる。それとは別に、四国の弘法大師霊場八十八所巡りがあった。
札所巡りには、治らぬ難病をかかえ帰郷できるあてもない悲壮な巡礼(じゅんれい)の旅があり、「もし長煩いで病死の節は、そちらの村の式法どおり埋葬くだされたく」と書かれた「諸国御衆中様」あて、つまり不特定の人びとに頼む村役人の一札をふところに入れての旅立ちであった。じっさい、帰らずじまいの札所巡礼も少なくなかった。その半面で、金とひまをもつ上層の人びとの物見遊山(ものみゆさん)を兼ねた札所巡りも増加した。
三十三所を巡り終えたり、とくに西国・坂東・秩父の百所巡拝を成就したりすると、巡拝供養の石塔を建てた。市域では宝永年間(一七〇四~一一)ころから建てはじめられたらしく、水内郡橋詰村(七二会)に宝永四年九月の「奉納百番順礼成就所」と記銘する山状角柱塔、埴科郡桑根井(くわねい)村(松代町)に同年十一月の「奉納秩父三拾四番順礼□(所カ) 奉納坂東三十三所 奉納西国三十三所」と刻む屋根出し角柱石塔がある。札所巡拝塔の数は一八世紀後半から一九世紀へと増加し、きわめて多い(『長野市の石造文化財』)。
札所巡りが盛行すると、洛陽(らくよう)(京都)三十三所、江戸三十三所、信濃三十三所などや、より狭い地域の三十三所観音も各地に設定された。さらに、一寺院の境内などに設けるものもつくられる。西国・坂東・秩父などへはとても行けない人びとに、巡拝の機会と利益(りやく)を供しようとするものであったろう。文政四年(一八二一)、水内郡田子村(若槻)地蔵院の住職が、西国・秩父・坂東百番観世音の造立(ぞうりゅう)を発願(ほつがん)した。地蔵院奥の院の参道にその土地を確保するため、土地所持百姓と山畑取り替え手形を同年三月にとりかわした(『田子共有文書』)。巡拝観音塔は現在も、秩父の二体が失われたものの、九八塔が存在する(『田子誌』)。同様に百所観音を建立したところは、水内郡上松村(上松)の昌禅寺墓地参道、同郡茂菅(もすげ)村(茂菅)の静松(じょうしょう)寺参道、更級郡小松原村(篠ノ井)の天照寺羅漢堂(らかんどう)南などにある。また、高井郡小出村(若穂)の東明寺境内には、四国八十八所霊場が設けられ、それぞれ弘法大師坐像を線彫りした光背型石塔が一番から八十八番まで建てられた(『長野市の石造文化財』)。