松代藩の年中行事

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松代藩の藩主と家中(かちゅう)(藩士)のおもな年中行事は、表1のようである。もっとも、近世前期と後期とではかなり変化しているはずだが、史料でわかる後期、とくに一九世紀のようすである。藩主の在府(ざいふ)年と在城年とでも違いはあるが、しかし、藩主不在の場合には家中の御礼(おんれい)(御目見(おめみえ)あいさつ)に家老が応対するなどにより、行事自体はおこなわれるものが多い。家中が登城して藩主に御礼する主要な行事には、正月、五節供(ごせっく)のほか、中元(ちゅうげん)・八朔(はっさく)・玄猪(げんちょ)・歳暮(せいぼ)などと、毎月の月次(つきなみ)御礼があった。


表1 松代藩の年中行事(近世後期)

 正月行事は数が多い。元朝(がんちょう)・二日に家中一同が登城御礼し、三日には御流れ頂戴がある。七日の七種(ななくさ)節供祝儀にも登城御礼し、十一日の御具足(おぐそく)開き鏡餅(かがみもち)頂戴が正月御礼の締めくくりになる。この十一日は蔵開きの日で、諸役所は仕事初めになる。また、殿様御覧をおこなうものに、三日の乗馬初め、御謡(おうたい)初めがあり、以後正月中に槍術(そうじゅつ)・弓術・剣術・砲術などの稽古初めや儒者講釈初めなどがつづく。

 家中以外の御目見の資格をもつものも、年頭の登城御礼をおこなう。皮切りは四日の長国寺・大英寺・開善寺以下、城下および近郊の真田家ゆかりの寺の御礼である。城下以外の領内外寺社と御支配三ヵ所は、正月九日に在方の御朱印寺院、善光寺大勧進(だいかんじん)・大本願名代(だいほんがんみょうだい)、八幡宮(はちまんぐう)(武水別(たけみずわけ)神社)神宮寺、飯縄(いいずな)神領仁科甚十郎、十一日に戸隠別当勧修院(かんじゅいん)、十二日に領内禰宜(ねぎ)(神主)と和合院など山伏(やまぶし)(修験(しゅげん))がそれぞれ登城御礼する。また日時不定だが、海野(うんの)(小県郡東部町)の白鳥(しらとり)神社や上田の芳泉寺(ほうせんじ)などもくる。二月十五日には、これは藩主幸貫(ゆきつら)の代に始まったものだが、真田家に恩顧(おんこ)ありとして上州狩宿(かりやど)(群馬県長野原町)・大笹(おおざさ)(同嬬恋(つまごい)村)の両関所番や大笹宿本陣などが年頭御礼にきた。なお、伊勢神宮御師(おんし)や諏訪神社擬祝(まねのほうり)は、通例、歳末に登城御礼をしている。

 正月十二日には、禰宜・山伏のあと、領内の帯刀(たいとう)御免・上下(かみしも)御免のもの、口留(くちどめ)番所番人、御用達(ごようたし)、町年寄(まちどしより)・検断(けんだん)などが年頭御礼をする。このうち帯刀・上下御免のものの年頭登城御礼は、藩主在城年のみだが、年頭御礼のほかに、参勤交代(さんきんこうたい)による参府と帰城のときには毎回、城下外(じょうかはず)れ・矢代宿(千曲市)・鼠宿(ねずみじゅく)(坂城町)のいずれか指定の場所で御礼をおこなう。うち帯刀御免のものの人数は、天明二年(一七八二)には二三人で、北国街道宿駅問屋(とんや)(全員ではない)、藩主が就任後初の帰国のさいおこなう領内御境巡(おさかいめぐ)りのときに休泊する本陣、小布施栗御林守(くりおはやしもり)などに限られていたが、漸増(ぜんぞう)して文化八年(一八一一)には四四人になる。増加した人数には、天明飢饉(ききん)のとき窮迫村民救済に二〇〇両をこす多額の金品を拠出したもの(五人)、冥加金(みょうがきん)(献金)を差しあげたもの(一六人)などがいた。冥加金献上による帯刀御免のものは、幕末にむけてさらに増える。

 五節供(ごせっく)は民間同様、正月七日の人日(じんじつ)のほか、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午(たんご)、七月七日の七夕(たなばた)、九月九日の重陽(ちょうよう)の各節供で、家中は御祝儀に登城御礼する。また、これも民間同様の行事だが、盂蘭盆(うらぼん)の七月十五日の中元(ちゅうげん)、八月一日の八朔(はっさく)、十月の玄猪(げんちょ)(亥の子(いのこ)の祝い)、十二月二十七日の年越(としこし)御祝儀にも登城御礼がおこなわれた。ちなみに、寛保(かんぽう)二年(一七四二)戌(いぬ)の満水は八朔の登城御礼中に大満水となり、城の畳の上五尺余まで浸水した。天井(てんじょう)や梁(はり)・鴨居(かもい)へ逃れた家中もあり、藩主らは御用部屋二階へ難を避け、二日夕七ッ時(午後四時ごろ)減水してようやく開善寺へ船で避難している。月次(つきなみ)御礼は、幕府と同じく毎月朔日(ついたち)と十五日が原則であった。

 藩主にとって大事なものに、正月二日ごろと歳末になされる幕閣(ばっかく)・親戚・信濃諸大名などへの書状と贈り物がある。将軍へは十一月に小布施栗、十二月に追鳥(おいどり)村々に調達させた雉(きじ)が献上される。寺社関係では、正月の真田家氏神白鳥(うじがみしろとり)神社への参詣、年により動くが九月ごろの白鳥神社祭礼時の参詣がもっとも重要であった。真田家祈願所の開善寺による城内大般若経転読(だいはんにゃきょうてんどく)は、年二回および臨時の災疫除(よ)け祈祷(きとう)におこなわれた。初代藩主信之以下歴代藩主の廟所(びょうしょ)への祥月(しょうつき)命日ごろの参詣または代参も欠かせない。なお、各藩主および夫人などの回忌(かいき)年には一周忌にはじまり百五十回忌、二百回忌と法要を営む。また伊勢神宮への正月の代参があり、諏訪神社へも七月の御射山(みさやま)祭へ代参を送る。このほか、民間祭礼ではあるが、城下の天王(てんのう)祭礼は藩も深くかかわり、雨宮(あめのみや)村(千曲市)の山王(さんのう)祭礼では神輿(みこし)が城内大門(おおもん)に入る。八幡(やわた)村(同)の八幡宮御ねり祭、町八町(まちはっちょう)の祝(ほうり)神社祭礼などにも藩主の芳志が届けられた。