白鳥大明神は真田家の氏神で、上田から松代へ移ったさい海野から寛永元年(一六二四)に松代城下南郊の西条(にしじょう)村へ分祀(ぶんし)した。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と、真田家の始祖とされる貞元親王・貞保親王である(『町村誌』東信篇)。当初の社殿が老朽化して、六代藩主幸弘(ゆきひろ)が発願(ほつがん)し、七代幸専(ゆきたか)が文化十年(一八一三)九月に改築したものが現存の社殿である(『松代町史』下)。この月、京都吉田家へ申請してあった大鋒院殿(だいほういんでん)(初代藩主信之)の神号が景徳(けいとく)大明神と定まり、白鳥神社に合祀(ごうし)された(災害史料⑩)。以後、白鳥大明神と景徳大明神を白鳥山両宮と称する。
八代藩主幸貫(ゆきつら)の両宮にたいする崇敬の念もきわめて篤(あつ)かった。文政九年(一八二六)五月、幸貫は白鳥大明神に五〇石、景徳大明神に五〇石の神領を奉納し、その収納をもって毎年の祭礼費と社殿御用費にあてさせた。五月十五日から十七日を臨時祭礼とし、家中には十七日に拝礼させ、また領民の独り身七〇歳以上勝手向き難渋の男女へ施行米(せぎょうまい)一俵ずつをあたえている(災害史料⑬)。さらに九月、大鋒院殿の木像を白鳥山に遷座(せんざ)させようとしたが、勝手役から財政難のさなか遷座の大礼には借財よりほかなしと反対されて延期した(同前)。
幸貫は文政八年五月、白鳥大明神の御本号は四宮(しのみや)大明神であるから以後四宮大明神と称すること、また宮地は舞鶴山(まいづるさん)と称すべきことを仰せだした(同前)。小県郡海野の白鳥神社でなく、同郡姫子沢(ひめこざわ)村(東部町袮津(ねつ))の四宮神社が本宮との判断によったが、嘉永五年(一八五二)の幸貫の死後白鳥大明神に復する。幸貫はまた、景徳大明神を武靖(ぶせい)大明神と改号した。舞鶴山麓(さんろく)に一〇八間の馬場を設けて祭礼の終日騎射大会を催したり、嘉永二年には諏訪の名匠立川和四郎につくらせた木造神馬(じんめ)二体を奉納したりしている(『松代町史』下)。
舞鶴山両宮に寄せる幸貫の思いは深かった。そのことをしめす一例だが、文政九年に北沢源次兵衛(げんじべえ)が幸貫の独断的施政をきびしく諫(いさ)めるということがあった。北沢は養子入りした幸貫の御側御納戸役(おそばおなんどやく)や御側役(おそばやく)として身近に接し、藩主就任後は御勝手向(おかってむき)取扱御用掛、江戸学問所教頭、御郡中御横目(よこめ)などを勤めた儒者である。北沢の諫言(かんげん)には、首席家老矢沢監物(けんもつ)ともよくよく相談すべしという内容もあった。幸貫は北沢に書状を渡し、「家督以来何卒(なにとぞ)少しも国家のために相成り、第一には公辺(公儀)への寸分の一も御恩沢(ごおんたく)に報いたく、第二には当家(真田家)へ対し候て舞鶴山の両宮の神慮に相叶ひ申し候様にと、それのみ心に絶えず」、その思いから数々の新儀を発してきたが、「孤立」のなかの独断で上下不和を招いたと反省している。そして矢沢の諫言もいれ、上下和楽のもとに政事をおこなうべく、舞鶴山両宮へ血判(けっぱん)の誓詞(せいし)を奉納するとして誓詞案文(あんもん)を北沢や矢沢監物にしめした。「もしまたこの上私欲私智生じ候て、諫めも用ひず、家の大乱に至り候の端(たん)にも相成る身に候はば、忽(たちま)ちに生命を御傾亡成(ごけいぼうな)し下さるべく候」と結ぶ誓詞である(読みくだしにあらためる。『矢沢家文書』真田宝物館蔵)。北沢も随行させて帰国した幸貫は、同年十二月、矢沢監物らを率いて舞鶴山両宮に参詣した(災害史料⑬)。