家中の相続と格式

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家中(家臣)の登城御礼といっても、だれもが殿様に御目見(おめみえ)できたわけではない。松代藩の家中は士(し)(士格(しかく)・給人(きゅうにん)格)、徒士(かち)、藩主に目見できない奉公人(足軽(あしがる)・中間(ちゅうげん)・小者(こもの)など)の三つの異なる集団によって構成されていた。士のなかには別格上層の「指立(差立)(さしだち)」三五家がある。また、奉公人には苗字(みょうじ)をもつ層ともたない層とがある。苗字のある奉公人には諸役所の下役の物書(ものかき)・小頭(こがしら)・手代(てだい)などがいる。苗字なし奉公人には煮方・飯方などの料理人、草履取(ぞうりとり)・駕籠(かご)などの人足、畳刺(たたみさし)・屋根屋・鍛冶(かじ)などの職人等々がふくまれる。指立を別に数えれば四段階、奉公人を二分すれば五段階の格式集団が存在した。

 この格式別の人数をみると、鎌原桐山(かんばらとうざん)『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)』(『北信郷土叢書』①)の文化六年(一八〇九)に、つぎの記述がある(読みやすくあらため、割り書きは括弧内に記す)。

藩士、番頭(ばんがしら)格以上およそ三十五家、これを指立の者といふ。平士およそ三百六十六家(給人格以上およそ四百壱家)、徒士(かち)格およそ百七十四人(嫡子にて召し出されたる者もこの内にあり)、目見以下の者(第下(だいか)(殿様)の御目通りせざる者をさしていふ)、およそ千三百二十人(扶持米(ふちまい)は賜りても譜代(ふだい)の臣にあらざるはこの限りにあらず)。

 右の給人格・徒士格・目見以下のそれぞれが従事する役職および人数は、表2のようであった。目見以上のもの、とくに給人格には、家督(かとく)・跡式(あとしき)相続とそれにかかわる隠居や養子をはじめ、諸儀礼・諸行為のなかに藩主の許可を要するものが多い。半元服(はんげんぷく)(略式の元服)、元服、初御目見(はつおめみえ)、改名、縁組・離縁、前髪剃り・剃髪(ていはつ)・惣髪(そうはつ)、湯治(とうじ)・伊勢参宮など他出、親煩(おやわずら)い看病、病気養生などがある(「松代藩家老日記」、国立史料館編『松代藩庁と記録』)。いずれも、所属する役職の長から家老に願いを上げ、藩主の意を伺って家老から下達される。


表2 松代藩家中の格式別役職(文化6年)

 これらのうち、格式の階層差が端的にあらわれるもっとも重要なものは、家督・跡式相続である。安永八(一七七九)年から文化二年(一八〇五)までの相続願書(『松代真田家文書』国立史料館蔵)の分析がある(磯田道史「近世大名家臣団の相続と階層-松代藩真田家の場合-」)。これによればつぎのようであった。

 士格のものは「家督」相続であって、相続願書にはかならず「家督願」と記される。また、当主死後にも「家督遺書願」を出せば家督相続が認められる。その相続人は倅(せがれ)が八六・七パーセントを占め、ほかは養子である。ただし、倅というなかには以前に認知済みの養子もふくまれる。徒士格では、願いでるのは家督でなく「跡式(あとしき)」である(年により「家督」とも書かれる)。相続人は倅が五八・三パーセントと下がるが、死後の「遺書願」が許される。これとは対照的に、奉公人層が願いでるのは「跡式」か「跡式跡役」であり、死後の「遺書願」はない。相続人のうちの倅の割合は小さい。それでも苗字あり奉公人では四七・五パーセントあるが、苗字なし奉公人では一二・一パーセントにすぎない。

 いまひとつ、格式階層別の相続の違いをしめすものに、当主が隠居(および死亡)してあとへ譲る年齢がある。平均年齢は士格五五・八歳、徒士四九・四歳、苗字あり奉公人五一・九歳、苗字なし奉公人四〇・八歳である。

 士格のものは死ぬかその直前まで長く勤続する。したがって死後相続も多い。そして実子が家督相続し、実子がなければ養子で補完される。これは、士格のものは主従関係で結ばれる主君に「家」として勤仕するという本質に由来しよう。よほどの事情でもない限り本人能力如何(いかん)で相続が左右されることはなく「家」が存続される。徒士は死後相続が少なくなり、当主が健在のうちに後継者へ譲る。相続人に倅優先という傾向は認められるが、その割合は低下する。士格に準じる「家」相続の原則はあるが、同時に本人能力如何が問われるのであろう。

 奉公人では、苗字あり奉公人は勤続年数が長い。職務上、筆算達者(ひっさんたっしゃ)や地方巧者(じかたこうしゃ)で、それも経験豊富な熟達者が求められるからであろう。倅への相続割合も比較的高いが、これは親のもとで専門技能を見習う機会があるためと思われる。つまり、親から子への世襲は認められたが、それは本人の職務能力しだいであって、藩がその「家」の存続に配慮するわけではなかった。苗字なし奉公人の場合には、勤続年数が一〇年に満たないものが多く、三、四〇歳の壮年で隠居し「御用に立つ者」へあとを譲る。実子や養子への相続という原則はない。ではだれに譲るかというと、相続願書の文面上は「従弟(いとこ)」「弟」「甥(おい)」などだが、この多くはじっさいには血縁関係のない村や町に住む若者である。壮年で交替するのは、肉体労働の職種で働き盛りでなければ勤まらないこともあるが、もともと供給源は村や町の若者で、給金稼ぎの武家奉公だから、ある程度貯えができれば他へ転じる。世襲とか「家」の存続とかは、藩にとっても当人にとってもそもそも問題外であった。

 藩主と主従関係で結ばれる狭義の「家中(かちゅう)」は、指立・給人格と徒士格であろう。目見以下の奉公人は埒外(らちがい)だが、ただ代々世襲している足軽の一部分ぐらいまでは主従意識をもっていたのかもしれない。