恩田緑蔭(りょくいん)の「松代十二箇月絵巻」は、松代城下町の一二ヵ月の暮らしを描いている。原本はなく、その下絵(八田幸三蔵)と絵だけの模本(もほん)(真田宝物館蔵)がある(以下、絵巻と略記。原田和彦『市誌研究ながの』五~一〇号)。城下町の年中行事や暮らしについては、藩士の鎌原桐山(かんばらとうざん)『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)』(以下、漫筆と略記)、片岡志道(しどう)『見聞録』(以下、見聞録)のなかにも記述が多い(北村保『松代』創刊号・一〇号)。また、藩士飯島勝休(かつよし)の『飯島家記』(以下、家記)にも記述がある(古川貞雄『長野』一二〇号)。『松代町史』下巻にも記述がある。いずれも江戸後期の一九世紀に入ってのものである。これらによって、まずこの項で年中行事を概観し、つぎに天王祭のようすと町の生活の変化をみていくことにしたい。
正月には、元朝に若水を汲み、産土(うぶすな)社はじめ社寺に初詣でをする。二日は稽古初め、仕事初め、書初(かきぞ)め、謡(うたい)初め、商家の初荷(はつに)の日である。三日には武家の乗馬初め、射初め、鉄砲初めなどがある。三日までは正月三ヵ日で、神棚にお供え物をあげて献灯し、朝か昼に雑煮を食べる。六日の夜は六日年取りで、蟹(かに)(沢蟹)の吸い物を出し蟹を串(くし)にさして家の口々にさすのを習いとする。蟹のかわりに干鰯(ほしか)の頭をさしたりもする。七日の節供(せっく)は七種粥(ななくさがゆ)。寺子屋・私塾の読み初めの日で師匠と寺子は贈答品をとりかわす。十一日は蔵開きの日で、鏡餅を開く。武家は具足(ぐそく)開きをおこない、男は具足に供えた餅、女は鏡台に供えた餅を雑煮や汁粉にして食べる。このころ三河万歳(みかわまんざい)が回ってくる。
十四・十五両日は小正月(こしょうがつ)で、十四日の晩が小正月年取りである。十五日には、町ごとに門松や七五三縄(しめなわ)を集めて左義長(さぎちょう)(どんど焼き)がおこなわれる。場所は道祖神の祠(ほこら)や石塔のある場所で、道祖神祭りでもある。左義長の火をもち帰って茶を沸かして飲めば、年中風邪(かぜ)をひかないといわれた。若者仲間は樫(かし)の木でつくる男根をかたどった撞木杵(しゅもくきね)をかついで町内を回り、勧進(かんじん)(寄付)銭を集めた。墨塗り祝いと称して大根などの切り口に油墨をつけておき、隠しもって若い女性の顔に塗りつけることもした。十五日には小豆粥(あずきがゆ)もつくる。
肴町(さかなまち)や下田(しもた)町・同心(どうしん)町にはそれぞれ、北国街道が地蔵峠を越していた古い時代から路傍(ろぼう)にまつられた道祖神社がある。両町の若者仲間らは、一尺五寸周りもの大きな男根をこしらえ、幟(のぼり)や旗、五色紙の幣(へい)を立て、卑猥(ひわい)なことばをわめきながら終日米銭酒食の勧進に押しあるく。どの家も米や銭一二文ほどを出し、酒屋は酒、醤油(しょうゆ)屋は醤油、肴屋はするめなどを出す。一行は城内の御台所や曲輪(くるわ)まで入りこんで勧進しあるいたが、城内に入る祭りは天王祭の大門(おおもん)踊り、雨宮(あめのみや)神事の獅子(しし)踊りと、この道祖神だけだった。もらい集めた酒肴による宴席で、この晩は終夜騒々しかった。二十日は二十日正月(はつかしょうがつ)で、正月最後の遊び日である。
二月二日は奉公人の出替(でがわ)り日である。出替わりの奉公人たちが木町の中央橋付近にたたずみ、さてどうしたものかと思案に暮れたので、この橋を思案橋とよんだという。節分には煎豆(いりまめ)をまいて「福は内、鬼は外」と唱える。まいた豆を年齢の数だけ拾って食えば寿命がのび、しまっておいて夏の初雷鳴のとき食べれば落雷の難をまぬがれるといわれた。二月初午(はつうま)の日は稲荷(いなり)社の祭礼で、赤飯を炊く。十五日は釈迦入滅(しゃかにゅうめつ)の日で寺院では涅槃会(ねはんえ)を営み、ヤショウマをつくり参詣人に配る。ただし、江戸時代の確かなヤショウマの史料は見当たらない。
絵巻の三月に描かれているのは、鶏合(とりあ)わせ(闘鶏(とうけい))・雛(ひな)祭り・観桜(かんおう)である。鶏合わせも雛祭りも三日の桃の節供の行事で、屋外の鶏合わせ、屋内の雛祭りという構図である。鶏合わせは女性たちが軍鶏(しゃも)を闘わせている。雛祭りは、飾りつけた雛の前で着飾った女性たちが白酒らしい杯(さかずき)を傾けている。雛段はなく、飾られているのは松本雛と呼ばれた比較的安い押し絵雛にみえる。この時期、本格的に雛段を設け豪華な享保雛(きょうほうびな)・古今(こきん)雛を飾れたのは、ごく少数の豪農商ぐらいであった。観桜は神社の境内に陣幕を張り茣蓙(ござ)をしいて持参の重箱をあけている。少しあとになると森・倉科(くらしな)両村(千曲市)の杏(あんず)の花見に松代から行くものが増す(中条唯七郎『見聞集録』)。
町の東郊牧内(まきうち)村(松代町)の虫歌観音堂の祭りは、三月十七日と七月十日である。安永四年(一七七五)焼失し、行基(ぎょうき)作と伝える千手観音も首だけが焼けのこっていたが、住職がその首を胎内(たいない)に納める一丈三尺(三・九四メートル)の像を京都の仏師につくらせ、天明七年(一七八七)山を切りひろげて舞台付きの堂を建立(こんりゅう)した。文化年間には祭り日の前夜の暮れから列をなして群参し、「松代の近辺にて参詣の賑やかなるは、この観音の右に出るものなし」という盛況であった(漫筆)。のち類火にあい零落(れいらく)する(『町村誌』東信篇)。
絵巻の四月には春祭りと花祭りが描かれている。春祭りは産土(うぶすな)社の祭りで、神楽(かぐら)が志納銭をはずむような家々をめぐったらしく、門を入って母屋(おもや)の前で太鼓(たいこ)をたたきながら舞っているのを、座敷から見物しているようすが描かれている。花祭りは四月八日の釈迦(しゃか)誕生日で、寺へ参り誕生釈迦仏像に甘茶をそそぐ。四月にはまた甲州から猿回しがきて、藩の廐(うまや)をはじめ家中を巡りあるいて廐の祈祷(きとう)をおこなう。皆神山の開帳がなされるのも四月で、相撲・狂言などが興行される。四月申(さる)の日には雨宮山王(あめのみやさんのう)神事があり、松代大御門(おおごもん)前へ神輿(みこし)が入る。
五月五日の端午(たんご)の節供には、菖蒲(しょうぶ)を掛け、菖蒲湯に入る。昔は軒端(のきは)に菖蒲と蓬(よもぎ)を三把(ば)ずつさしたが、文化年間ごろには掛け菖蒲といって藁(わら)で束ねて家の口々の戸の上に掛ける家が増した。子どもの飾り幟(のぼり)はふつう四月二十六日から五月六日まで飾るが、朔日(ついたち)から立てる家もある。町家(まちや)はまず屋内に飾り、四日から表に立てる。また、気候にもよるが、五月朔日(ついたち)ごろ炬燵(こたつ)を塞(ふさ)ぎ、五月半ばごろ蚊帳(かや)を用いはじめる。
城下町をあげての天王祭は、六月の十八・十九両日か、あるいは八月の両日に開催される(次項)。
七月には七日が七夕(たなばた)の節供である。十三日から十六日までの中元(ちゅうげん)(お盆)には、天明年間(一七八一~八九)を頂点に曳灯籠(ひきどうろう)が盛んであった。武家も町家も、幼児のいる家はみな曳灯籠を引かせ乳母(うば)に抱かれて町々を遊びあるく。屋根形や作り物細工で飾り、五、六尺の大ものもあったが、文化年間には一尺ほどの小型で、彩(いろど)り美しい丸提灯(鬼灯(ほおずき)提灯)にかわった。七月二十日は長国寺の普同会(ふどうえ)である。信州の曹洞宗寺院が残らず檀家(だんか)に勧めて先祖の霊号を記し送り、一霊につき青銅三八文ずつ納め、これを集めて法会(ほうえ)を営む。
八月は中秋(ちゅうしゅう)で、秋祭りの季節である。村々で祭礼日に歌舞伎や人形芝居などが興行され、また奉納相撲が催された。絵巻に相撲の絵があるが、村祭りの奉納相撲か、江戸相撲による勧進(かんじん)相撲かははっきりしない。絵巻のもうひとつの場面は、中秋の名月を観賞している。ぼた餅を作り、大根・枝豆などの秋作物や薄(すすき)を月神に供える。
八月十四日・十五日両夜は火伏(ひぶ)せの神秋葉権現(あきばごんげん)の祭りである。町八町(まちはっちょう)にはみな秋葉の小祠(しょうし)がある。灯籠や作り物を飾りたて、日暮れから亥(い)の刻ごろ(午後一〇時ごろ)まで見物が雑踏(ざっとう)する。文化六年(一八〇九)には、荒神町は人形使いや長唄(ながうた)・三味線(しゃみせん)の興行、中町では二見が浦(ふたみがうら)日の出の作り物、木町は流水に屋形舟(やかたぶね)を浮かべ、紺屋町は江戸の戯場などの作り物、馬喰町では往来の頭上に屋根から屋根へ竿(さお)を渡し三〇間(約五五メートル)ばかりの棚をつくり、これに紙製の夕顔を吊るして内に灯(ひ)を灯し、その先に江戸両国橋をうつして大いに賑わった。肴町は巨大な水桶(みずおけ)に山から伐(き)ってきた松・柏(かしわ)の大木を立て、投げ入れの活花(いけばな)とする趣向であった。
九月九日は重陽(ちょうよう)の節供である。菊の節供ともいい、菊の観賞会がある。このころ紅葉(もみじ)狩りもあり、鎌原桐山は友人たちと文化八年の重陽の日、西条山に登り紅葉の下で酒宴を張り詩歌をよんでいる。九月は松茸(まつたけ)狩りのシーズンでもあり、藩主が松茸狩りを楽しむこともあった。
十月亥(い)の日には玄猪(げんちょ)の祝いがある。新米で餅を搗(つ)き、亥の刻(午後一〇時ころ)に食べる。藩士は登城し、藩主が手ずから餅をあたえる。武家・町人の家でも餅をつくり、家族のほか奉公人などにも食べさせる。七日・八日・九日の三日間、皆神山祭礼があり見せ物などの興行がでる。このうち八日は子どもの神様ということで、とくに遠近から子ども連れの参詣人が集まって賑わった。
十一月二十日は恵比寿講(えびすこう)の日で商い店では客集めの工夫をこらす。十一月の中の冬至(ちゅうのとうじ)の夜はカボチャを食べる。
十二月には、十三日に鎌原桐山宅へ麻績(おみ)村(東筑摩郡麻績村)のものが門松(かどまつ)を届けにくる。これは上田在城当時からの佳例で、家中に類例が多いという。二十一日には城中で御煤払(おすすはら)いの儀がなされるが、城下の武家・町家でもこの日から歳末までに煤払いをする。城内では二十五日に御餅搗(つ)きがあり、武家・町家でも二十八日までに餅を搗く。三十日までに、武家や町人は門口に門松を飾り、屋内屋外に七五三縄(しめなわ)を張り、床の間や蔵、武家なら具足(ぐそく)などに鏡餅(かがみもち)を供える。大晦日(おおみそか)には年取り魚を食べる。鮭(さけ)がふつうだが、上層の町人・百姓には鰤(ぶり)を取りよせるものもいた。除夜の鐘が撞(つ)かれ、この晩は終夜寝ないという風習もあったという。