松代城下町最大の祭りは、天王(てんのう)祭(祇園(ぎおん)祭)である。町人主体の町八町(まちはっちょう)こぞっての祭礼だが、藩主をはじめ家中も積極的に参加した。祭礼日は、参府で藩主不在年には六月十八日・十九日、在城年には八月十八日・十九日が基本だったが、藩主やその一族の不幸の服忌(ぶっき)とか領内凶作とか種々の事情で、藩の許可する月日が動く年も少なくなかった。天王祭の盛況ぶりは、前記の「松代十二箇月絵巻」にも部分的に描かれているが、全容を描いた絵巻に藩絵師三村晴山(みむらせいざん)の「松代天王祭図巻」(真田宝物館蔵)がある(北村保『松代』六号)。また、池田宮(いけだのみや)と祇園祭礼の研究もある(北村保『松代』一一号。以下これに負うところが多い)。
天王祭礼は、祇園社から牛頭天王(ごずてんのう)の神霊(神輿(みこし))を迎える天王おろしからはじまる。牛頭天王はインドや中国の密教・陰陽道(おんみょうどう)などが混交して成立したものが伝来し、日本では素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合(しゅうごう)した。東条(ひがしじょう)村(松代町)の池田宮(玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社)は、由緒の古い式内社(しきないしゃ)で、海津(松代)城の鎮守として歴代の城将・城主から崇敬されてきたが、主神の玉依比売命とともに、相殿(あいどの)に天照大神(あまてらすおおかみ)・健御名方命(たけみなかたのみこと)そして健速素戔嗚命(たけはやすさのおのみこと)をまつっている。
この牛頭天王を迎えまつる祇園祭礼は、最初、東条(ひがしじょう)氏の尼巌(あまかざり)城の城下町でおこなわれた。戦乱による中絶のあと上杉景勝支配下で復興されたが、景勝の国替(くにが)えにともなう東条氏の転出と尼巌城廃城でまた途絶した。これを再興させたのは、慶長八年(一六〇三)からの松代城主松平忠輝(ただてる)で、大久保長安が尽力したらしい。伝承的史料では、慶長九年に天王神輿下りの御旅所(おたびしょ)が松代中町に移され、忠輝が神輿を寄進したとする。現用の神輿は嘉永(かえい)六年(一八五三)、大坂心斎橋(しんさいばし)通り宮屋治郎兵衛(じろべえ)に発注して製作したものだが、忠輝寄進とされる神輿も池田宮に保存されており、様式から江戸初期の制作と考えてよいものであるという。
江戸初期の天王祭礼のようすはわからない。前期の寛文(かんぶん)十一年(一六七一)「御町間帳(ごちょうけんちょう)」には、馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋町の役儀(やくぎ)にそれぞれ「一(ひとつ)、祭礼山引き人足家並みに出(いだ)し申し候事』があげられている。この山引き(杉の葉製の杉山宝舟を引く)は、いつのころからか、馬喰町のみに残り、紙屋町・紺屋町は山車(だし)や太神楽(だいかぐら)にかわる。江戸中期の宝永三年(一七〇六)落合保考(ほこう)『つちくれかゝみ』(『新史叢』④)に、天王祭礼の概要の記述があるが、すでに後期の祭礼とほとんど異ならない。江戸後期の祭礼は、文化五年(一八〇八)などのことを記す漫筆、文政四年(一八二一)に「旧例」を記録した宮司小河原紀伊(おがわらきい)の「池田宮年中行事雑書」などに記されている。これらにより祭礼進行のようすをみよう。
藩主在城年の場合、四月ごろその池田宮御参詣ないし御代参がある。ついで八町寄り合いで祭礼の仕方が評議される。藩主在城年には重く、留守年には軽く決められた。決めた内容を職(しょく)奉行所に伺い、家老から許可や日程変更指示がでて祭礼執行日がきまる。六月執行の場合をみていくと、六月十三日が天王御下り、十八日・十九日が御祭礼、二十日神輿御帰りという八日間にわたる。
六月はじめに池田宮宮司から職奉行所へ殿様献灯二つの張り替えを願いでて灯籠(とうろう)を御買物役所へ届ける。藩主のほかに藩士からも多数の献灯があった。池田宮では九日に七五三縄(しめなわ)・御幣(ごへい)などを用意し、十二日早朝、神輿を神庫から出す。また、八町の七五三切りや伊勢町・中町・荒神町の市神(いちがみ)の御幣切りをおこない、職・町両奉行所へ天王御下りを届けでる。六月十三日の朝、池田宮から中町の天王御旅所(おたびしょ)へ大幕一張・大幟(おおのぼり)二本・散銭(さんせん)箱・大麻筥(たいまばこ)・雪洞(ぼんぼり)・土器(かわらけ)二組・油徳利(あぶらとくり)・神酒(みき)徳利が町人足により運ばれ、藩主使者が御初穂(おはつほ)、灯籠・蝋燭(ろうそく)を奉納する。
十三日九ッ半時(午後一時ごろ)、天王おろしがはじまる。宮司が神前で祈念奉幣し、天王神輿が出立して外田町(そとたまち)へ向かう。天王神輿は西田町から東木町・伊勢町の西がわを下り、伊勢町の市神(いちかみ)前で御休みとなる。このとき神輿は東向きに安置される。市神へ六根清浄(ろっこんしょうじょう)一反の奉納、御幣奉幣などの儀式があり、これは御休み所すべてでなされる。西がわを荒神町と東寺尾村の境まで下り、転じて東がわを上り、荒神町の市神前で神輿南向きで御休み。下中町小路より肴(さかな)町へでて東がわを上り、中ほどで神輿南面御休み。鍛冶(かじ)町東がわを上り、中ほどで南向き御休み。ここからまた東木町へ出、紺屋町南がわを通り、中ほどで東面御休み。紙屋町でも中ほどで西面御休み、馬喰町境で東面御休み。ここより帰路となり、馬喰・紙屋・紺屋三町北がわを通り、伊勢町からは東がわを通る。中町の御旅所に着き、東方より神輿を入れ安置する。十四日から毎朝、宮司の祈念勤行(ごんぎょう)がおこなわれる。
六月十六日九ッ時(正午)、検断所か問屋宅で、八町大門(おおもん)踊りの鬮(くじ)引きがおこなわれる。宮司は「御当城御鎮守 祇園天王御祓(おはらい)大宮司」と記す殿様へ献上する御祓札と重臣らへ配る四、五十枚を書きしたためる。この日職奉行所の祭礼桟敷(さじき)見分がある。藩主の桟敷は伊勢町北端西がわの御使者宿(おししゃやど)に、家老・奉行らの桟敷は伊勢町・中町のなかに設けられた。
十八日はいよいよ御祭礼日である。池田宮宮司は正六ッ時(午前六時ごろ)祈念をおこなって登城し、藩主に御祓札・御神供(ごしんく)・御神酒(おみき)を献上、ついで重臣一同へ御祓札を配る。文化五年の祭礼両日の出し物のことは、漫筆につぎの記載がある(送りがな、括弧内の注記などを補う。以下同じ)。
中町・伊勢町の両町は舞台を出し扮戯(ふんぎ)(芝居)をなす。その他鍛冶町・荒神町・紺屋町・紙屋町は山車(だし)或ひは太神楽(だいかぐら)・獅子舞(ししまい)などをなす。扮戯をなす事もあれども舞台を出す事能(あた)はず。肴町は国君鹵簿(こくくんろぼ)(大名行列)の学(まね)びをなし、小児をして鎗(やり)・挟箱(はさみばこ)を執りて列をなさしむ。上にいふ所の七町に馬喰町を加へて八町なり。馬喰町は大門踊(おおもんおどり)の時杉山とて杉の葉を以て作りし山を車にのせて引く人足を出すのみ。大門踊といふは祭の後の日、城門の前にして八町斉(ひと)しく囃子(はやし)て踊る事なり。種々の旧式ある事なり。
祭礼の二日間、町人はもとより藩主や藩士も祭りに参加して熱狂した。天明八年(一七八八)や寛政十二年(一八〇〇)の大火などで一時天王祭礼も衰えたが、文化三年(一八〇六)から旧にまさって豪華になる。文政ごろ江戸でつくられた日本全国大祭番付で、松代祇園祭は勧進元(かんじんもと)に位置づけられている(『松代町史』下)。町々は華麗なねり物を繰りだし、遠近からおびただしい見物客がきて雑踏(ざっとう)した。文化七年には左のようであった(漫筆)。
祭礼見物に来(きた)り町家(まちや)に宿(やど)する所、一家に一夜百余づゝ宿す。旗亭(きてい)(宿屋)中町に五、六軒、伊勢町に三、四軒右の如しと也。(中略)文化三年丙寅(ひのえとら)に祭礼昔の如く有し、この時見物人多く旅宿に宿することあたはず、諏訪祠(ほこら)(祝(ほうり)神社)などへ籠(こも)りて夜を明したる者の多かりし。又茶店の食物も食ひ尽くし、後より来(きた)る者は食に難儀せしとなり。鍛冶町にては鍛冶屋業を廃して両日蕎麦切(そばきり)を売りて利を得たるものあり。(中略)近年は他所者(よそもの)多く来るといへり。祭礼には金五百両以上の動きありといふ。或ひは千両の動きともいふ。紙屋町・紺屋町にて車付きのおどり舞台は今年始めて造る。大門踊り八町の高張挑灯(たかはりちょうちん)(提灯)今迄は火事の時用ひる挑灯を用ひしが、今年は新たに幕しぼりを画(えが)きたる挑灯を一様に造りたり。
天王祭礼へは藩主・藩士もすすんで参加する。警備に出動する藩士も多かったが、藩主はじめ重職らは桟敷(さじき)で見物する。藩士参加の圧巻は乗馬(馳馬(はせうま))である。延宝年間(一六七三~八一)ごろはじまったと伝えられ、八町の出し物が一段落したあとにおこなわれる。伊勢町・中町に二四〇間(約四三七メートル)の特設馬場がつくられ、ここを乗馬の若侍が駆けぬける。文化年間では、少なくて三〇匹、多い年は五〇匹以上が出場した。乗馬の若武者らは、花笠(はながさ)・母衣(ほろ)・肩衣(かたぎぬ)・甲冑(かっちゅう)あるいは鞍(くら)から紅白の長絹をなびかせるなど、美々しく着飾った。
祭礼の最後に、城の大門前で八町の大門踊りがおこなわれる。松葉桟敷が設けられて藩主はじめ家老・用人・大目付(おおめつけ)らが列座し、桟敷前の蓆(むしろ)には町奉行・職奉行・普請奉行・目付等々が居並んだ。大門踊りは、松平忠輝の代に将軍男子出生を祝って肴町がはじめたといわれる。真田氏入封(にゅうほう)後伊勢町・中町・荒神町・鍛冶町が加わり、その後残る三町も加わった。肴町はのちのちまで御先踊りをつとめる。先頭に、天狗(てんぐ)の面をつけ立烏帽子(たてえぼし)・素抱(すおう)・袴(はかま)の扮装(ふんそう)のものが一本歯の高下駄(たかげた)を履いて立ち、左手に御先踊りと書いた田楽灯籠(でんがくとうろう)、右手に大きな渋団扇(しぶうちわ)をかざす。これにつづいて肴町が輪をつくって御先踊りの歌で踊る。それがすむのを待って七町のものが参加し、七ヵ町踊りの歌で踊った(『松代町史』下)。