信之と連歌

411 ~ 412

連歌(れんが)も大名の必須(ひっす)の教養であった。連歌は室町時代には武士から庶民にいたるまで大流行した、短歌の上句と下句を別の人が唱和しつづけていく遊芸で、真田氏も信之や信繁(のぶしげ)(幸村)が連歌をたしなんだ。慶長末から元和初年ごろ、上田もしくは沼田(群馬県沼田市)での興行とされる夢想ひらきの連歌には、信之・氏女(信之夫人小松姫)・信吉(のぶよし)・信政・信頼・おちゃう・お姫・家臣木村綱茂(つなしげ)ら一四人が連衆(れんじゅ)として巻いている(『信州ゆかりの俳人真筆集成』)。


写真9 夢想ひらきの連歌 信濃で現存する最古の連歌
  (矢羽勝幸編『信州ゆかりの俳人真筆集成』)

 夢想ひらきとは、夢の中にあらわれた神仏のお告げを披露することで、初めの二句「松しめをかざりさかふる真田殿 国やこほり(郡)をとるは君ゆへ」「御調物舟路長閑(のどか)にはこび来て」が、信之が夢の中で得た句である。つづいて「風かすみぬるをちの海づら」の付け句を詠んだ氏女は、信之正室の小松姫である。「よる浪も音なき春の暮ならし」の句は、信之子の信吉で沼田城主。「岩手の床に鳥はねぬめり」と付けた信政はその弟で二代目松代藩主。「刈りのこす田づらの月はほのかにて」と詠んだ信頼(信重)は信政の弟である。

 天下を統一した徳川将軍家は、曲直瀬家(まなせけ)や野間家など、京都の最高クラスの名医をつぎつぎと召し抱え、自家の医療にあたらせるとともに、他家へも派遣して恩恵をあたえて支配関係を強めようとした。真田信之は父昌幸(まさゆき)の代からの坂巻夕庵という儒医(儒学に詳しい医師)を抱え、寛永期に五〇〇石をあたえ優遇していた。坂巻夕庵は、真田昌幸・信之に重用された儒医であり、医療のほかに学芸の相談もうけていた。戦国から江戸時代にかけて、当時の学者といえば学問僧か儒医が大半だったから、多くの諸大名はこうした儒医を抱えてブレーンとしていたのだった。