為政者として自覚を高めた諸藩主は、いわゆる文治(ぶんち)政策の展開とともに、藩庁組織の官僚機構の整備をすすめ、好学の姿勢を強めた。藩主や上級藩士、それにつらなる儒者・僧・医師らによって、諸藩の儒学は支えられた。
天和二年(一六八二)に五代将軍綱吉は、第一条に「忠孝をはげまし、夫婦・兄弟・諸親類にむつまじく、召仕(めしつかい)のものにいたるまで憐愍(れんびん)を加うべし」とある、いわゆる忠孝札を全国各地に触れた。綱吉の徳治主義は、諸領主にも影響をあたえた。家中法度(はっと)についで、領内法度に「忠孝」の言辞が見えはじめる。たとえば、元禄八年(一六九五)の高島藩主諏訪忠虎家中法度には、「忠孝に励み、礼法を正し、文武両道を嗜(たしな)み、風俗乱れるべからざる事」の一条がある。しかし、元和八年いらい、信之の支配が長くつづいた松代領には、「忠孝」法度はみえない。信之への忠誠と戦国遺風を尊ぶ気風が、領内に醸成されていたのだろう。
元禄期(一六八八~一七〇四)に幕府が地方大名の領内風俗を探索した調書である『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という記録がある。信濃の諸大名の家風の差を記している。松代藩は「信房(のぶふさ)(三代藩主幸道(ゆきみち)、信之孫)」の代となっていたが、「家民」の仕置は中程度で、「譜代ノ士多ク、渡リ士少シ」、「故ニ風俗不宜(よろしからず)」、「無公儀ナル者多シ」と評価している。信房については「文武ヲ学ブ沙汰(さた)ナシ、然レドモ天性寛然トシテ、所行ニ悪キ義ナシト聞(きこ)フ。物毎古風ヲ宗(むね)トシテ、法ヲ守リ、勿論(もちろん)士民ヲ哀憐(あいれん)ノ心アリト云(い)ヘリ」と評している。これにたいし、各地を転々として飯山城主になった松平氏は、「風俗ヨシ、渡り士多キ故也」とされ、渡り士が多いと、辺土性を取り除くので風俗がよくなると記している。信之いらいの代々の家臣が多く、風俗が土着的で、幕府の期待する文武を学ばず、古風を旨とする真田家は、幕府探索方からみると、風俗よろしからざるものを感じたのであろう。この意味で、多くの信濃大名が文武では低い評価であるが、高島藩の諏訪忠晴(忠虎父)だけは「文武ヲ学ビ医学ヲ好ム」と高い評価を得ているのは納得がいく。
二歳で三代藩主となった真田信房(正徳元年(一七一一)に幸道と改名)は、元禄五年に綱吉の講義をうけた。元禄十年に幕府から松代・飯山・上田・飯田の四藩の大名に信濃国絵図の調製と郷村帳(ごうそんちょう)作成が命じられた。正保(しょうほう)四年(一六四七)の国絵図の修正と補訂であった。松代藩では、絵図元〆(もとじめ)役大日方佐五右衛門や原半兵衛正盛らのもとに、手代、絵師らがつけられ、領内調査はもちろん、他領役人と協力調整して大事業にあたった。元禄十五年正月、「大日方左(佐)五右衛門・原半兵衛、絵図書入れその外吟味相仕廻(しまい)申し候、郷村帳の清帳も仕立て申し候由」(家老日記Ⅱ)となり、同年に国絵図と郷村帳を幕府へ提出できた。また、幸道は、元禄十六年には善光寺の再建など寺社の保護もおこなうとともに、詩文に長じ、『松代侯詩集』を著している。幸道は書籍を多く好み、つぎの代に売り払ったとき四〇〇両にもなったという。痔疾(じしつ)で厠(かわや)に長くいるため備え付けの書を多く読んだという(『朝陽館漫筆』以下、漫筆と略記)。
四代藩主信弘は、二代藩主信政と二代目小野お通との子勘解由信就(かげゆのぶなり)の子であるが、その治世の享保(きょうほう)末年には、漢学者で儒医の桃井碩水(せきすい)や伊藤仁斎(じんさい)学派の森木藤助という儒医が招かれ講義をしている。藩士の大田温休、入(いり)弥左衛門、渡辺清左衛門らが学んでいる。桃井碩水は真田家の歴史である『松代通記』(『滋野世記(しげのせいき)』)を享保十八年(一七三三)に著し、家譜への関心も喚起した。『土芥寇讎記』で文武を学ばずと評価された松代藩主と家臣も文雅に向かっていたのである。森木藤助門人には渡辺清左衛門がおり、信弘の側役(そばやく)を勤め、五代信安から六代幸弘の代まで普請奉行として活躍した。鎌原桐山(かんばらとうざん)は清左衛門門人とみずから証言している。入弥左衛門は、勘定役の隠居で算術に通じ、歌道もよくした。
五代藩主信安は病気がちで政務を側近にまかせることが多く、田村騒動などの百姓一揆(いっき)も起きたが、書画に長じ、狂歌のほか俳諧(はいかい)を好み、落葉庵(あん)と号した。『高点御句留』に「並べては友達ほしき歌かるた」「蚊帳(かや)ごしの燈はつかし群蛍」などの句がある(福井久蔵『諸大名の学術と文芸の研究』下)。
六代藩主幸弘は、信安の嫡男として生まれ、宝暦二年(一七五二)一三歳で家督相続した。やがて財政再建のため、恩田木工民親(もくたみちか)を起用し財政改革にあたらせた。幸弘は好学で、和歌・俳諧・書道などをよくし、藩士子弟へも武術と学問を奨励し、宝暦八年には文学館を創設し、儒者菊池南陽を招いて藩士子弟を教育させた。和歌では、賀茂真淵(かものまぶち)の和歌を好み京都の歌人大村光枝を招き、藩内に真淵の学問が広がった。みずからも『にひづえ』『わかみどり』などの和歌集を残している。東寺尾村(松代町)長明寺の山額「慧日山」の文字などにその書をみることができる。
幸弘は俳諧でも白日庵菊貫(きくつら)、象麿(きさまろ)などの雅号をもち、毎月のように句会を催し、その連句を記した『菊の分根』・『菊畠』がある。また、天明以前の歳旦(さいたん)帳には、家老小山田主膳之直(しゅぜんゆきなお)(俳号鳥鬚(ちょうびん))や藩士大熊柳荘(りゅうそう)らも参加している(矢羽勝幸「真田菊貫の歳旦帖」)。
七代藩主幸専(ゆきたか)は、彦根藩主井伊家の四男で真田家に養子に入り、寛政十年(一七九八)に家督相続し、以後二六年間藩政を担当した。養父幸弘の武芸奨励の方針を受けつぎ、享和三年(一八〇三)には、家臣の武芸調査をおこなっている。学問では何流何学の学問、誰の弟子か、聖堂への出席者はいるか、経書・歴史・経済については何が得意か、講釈や作文指導ができる者がいるかなどを調べた。文化七年(一八一〇)に武術・学問など懈怠(けたい)なく出精(しゅっせい)すべきこと、四〇歳以上の者は一芸だけでも精進すべしとの武芸奨励の触れを出している(災害史料⑨、松田之利「真田幸貫の初期藩政」)。歌を好み、「霞だにまだ立ちかへぬ年のうちに早くも春とかへりけるかな」(『大暁院(だいぎょういん)詠歌集』)などの歌を残している。
八代幸貫(ゆきつら)は、白河藩主松平定信の二男で、文化十二年に養子に入り、文政六年(一八二三)に家督相続した。翌年には、武芸奨励とともに「学文(がくもん)の義は老若男女の別なく出精勤学致すべし」(災害史料⑬)と触れている。定信の好学を手本として、各武芸の御覧と大学会読(えどく)など文武奨励をおこなっており、家老河原綱徳(かわらつなのり)に命じて『真田家御事蹟稿(ごじせきこう)』六二巻を編さんさせた。天保十二年(一八四一)から十四年までは、幕府老中として天保改革の一翼をにない、海外防備の必要を痛感したかれは、砲術稽古や軍備増強にも力を注ぎ、「武芸は松代、柳川(やながわ)(福岡県柳川市)立花藩と海内(かいだい)並べ称せし」「「一誠斎紀実」『北信郷土叢書』⑦)と評されるほどになった。
みずからは書や画、和歌をたしなみ、天保二年江戸へおもむいたときの紀行文『朝日日記』、翌年十月には花の丸御殿の紅葉をめでた『神無月(かんなづき)日記』などを絵入りで書きとめている。画も好きで、大黒天像一〇〇〇枚を描き、孔子(こうし)像や自画像も描いた。
幸弘・幸専・幸貫ら各藩主は、松代藩御用達の豪商八田家の湧泉亭(ゆうせんてい)とよばれる下屋敷へ何度か出向いて句会の宴を催している。「涼しさに夏ともいさや白尽のかかる清水はまたもあらしな」(幸専)、「むく鳥の誘ひ立たる落葉哉(かな)」(幸弘)、「月に夜を戻して更(ふけ)る燈籠哉」(幸貫)などの短冊が何首か八田家に残された(『市誌研究ながの』九)。
九代藩主幸教(ゆきのり)は幸貫の孫、嘉永七年(一八五四)のペリー来航のとき、警衛を命じられ横浜へ出兵した。藩内は恩田党と真田党とが鋭く対立していた時期で、財政難でもあり、みるべき学芸は知られていない。一〇代藩主幸民(ゆきもと)は、伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城(むねなり)の二男で、慶応二年(一八六六)一七歳で家督相続し、戊辰(ぼしん)戦争では信濃一〇藩の触頭(ふれがしら)として新政府軍に属した。明治四年(一八七一)廃藩により上京し、のち伯爵(はくしゃく)となり明治三十六年(一九〇三)に没する。