一七世紀後半から武家支配の正当性を示すために歴史書の編さんがさかんになった。幕府は林羅山(らざん)・鵞峯(がほう)父子に神代から一七世紀までの編年史である『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』を編さんさせ(寛文十年(一六七〇)成立)、水戸藩では『大日本史』の編さんが明暦三年(一六五七)から始まった。元禄の信濃国絵図の調整や郷村帳作成調査は、国境や村境など領域の再確認のほか、藩史や地誌への関心を生んだ側面も大きかった。
享保期(一七一六~三六)以後、松代藩でも藩士による地誌や家譜が作成されるようになった。松代藩の職奉行落合保考(ほこう)は、松代領内の山川、原野、名所・旧跡、神社仏閣縁起などを記した江戸時代中期の地誌『つちくれかゝみ』を書いた。子女の教養のために書きつづったもので、序文に「おさなきものの平生(へいぜい)足に土をふみ、手に土くれを取れば、五疳(ごかん)消えて成人の後にわずらふ事なしとぞ」とあるように、成長後の役にたてばよいと『つちくれかがみ』と名づけたという。宝永三年(一七〇六)に成立したものを、保考晩年の享保十七年(一七三二)秋に寺社関係を補足してまとめ、全六巻からなる。職奉行という役職の関係で藩役所の記録などを閲覧して、地理的伝承に関心を高めていったようである。ほかに『取捨録』、『怪談録』、『真田家御武功』などの著書がある。
松代藩の重臣恩田家に生まれて、竹ノ内家を継いだ竹ノ内軌定(のりさだ)は、職奉行をつとめながら真田家の歴史を調べて享保十六年に『真武内伝(しんぶないでん)』全五巻を同藩士柘植宗辰(つげむねとき)の協力を得て刊行した。真田家の系譜や幸隆、信之や信繁らの武功などが収められている。延享三年(一七四六)没、享年五四歳。柘植宗辰は、『真武内伝』編さんに協力後、みずからも宝暦十二年(一七六二)に『真武内伝付録』四巻をまとめ、『真武内伝』を補った。『真武内伝』が明暦三年(一六五七)に信之を継いだ信政の家督で筆を止めているのにたいし、『付録』は真田家の家臣の出自や武功を補い、この両書で初期真田家の事蹟のあらましをみることができる。
真田家初期の事蹟をより詳細にまとめたのが『真田家御事蹟稿』である。真田家を興した一徳斎殿(いっとくさいでん)幸隆以下、大鋒院殿(だいほういんでん)信之などの事蹟を古記録・古文献を渉猟(しょうりょう)してまとめたものである。八代藩主真田幸貫が、始祖いらいの事蹟につき雑説多く、誤りも少なくないことを知り、これらを淘汰(とうた)して真実を後世に伝えるため、真田家の事蹟の編集を家老河原綱徳に命じたのである。
河原綱徳は、その命をうけて、六年の編さん期間と三年の仕上げ期間をへて、九年後の天保十四年(一八四三)に正編および付録図を藩主に献上した。正編は六二巻と真田家の小県郡松尾城、上州沼田城・岩櫃(いわびつ)城などの図や、大坂冬・夏陣之図など一六本の絵図からなる。これには家老鎌原桐山も協力して体裁などを勘案し、堤俊詮も検索記録文献の検討などに協力した。正編完成後、綱徳はさらに続編の編集をすすめたが、業半ばで没した。そのため、藩士飯島勝休(かつよし)があとを続行し明治にいたって続編を完了した。河原綱徳に協力した堤俊詮は『海津旧顕録(かいずきゅうけんろく)』(明治十三年)という松代領内地誌を著した。
飯島勝休は、西寺尾村(篠ノ井)の人で松代藩士飯島勝治の養子となり、天保十五年藩の納戸(なんど)役となり、嘉永元年(一八四八)江戸に出て勤務のかたわら故実家(こじつか)伊勢貞友につき武家故実を学んだ。藩主の冠婚葬祭や養子縁組などには儀式係としてその博識を役立てた。伊勢流・小笠原流の有職(ゆうそく)故実の伝書を多数筆写し、家伝的記録『飯島家記(けき)』(県立図書館蔵)を残した。これも江戸後期から明治にかけての生活変化をうかがう好史料となっている。松代藩士高野莠叟(ゆうそう)は、幕末から明治の変動を生き、『松代藩史稿』『松代地誌』『松代付近古城考』などを著した。