儒書講釈の開始

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六代藩主幸弘の藩政改革の一環として家臣教育がはかられ、宝暦八年(一七五八)、江戸から菊池南陽という儒者が招かれ、家中への体系的儒学教育が始まった。南陽は、幕府の大学助教もした林家(りんけ)系統の朱子学者で、『左伝(さでん)(春秋左氏伝)』・『周礼(しゅらい)』・『礼記(らいき)』などに通じていた。毎月九の日に三日ずつ、九ッ時(正午)より八ッ時(午後二時ごろ)まで講義がおこなわれ、藩では家臣に出席を奨励し、かつ武芸を怠り、琴・三味線などの遊芸をすることを戒めている。藩士のなかで儒学に通じる者はまだ少なかったようである(漫筆③)。開講の日には南陽は麻上下(かみしも)で威儀を正して講義した。そのうちに門人もやや学が進み、藤田、祢津(ねつ)家では講義のあと、門人による輪講もおこなった。南陽の学問は林家の朱子学を表向きとするが、そのなかには荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学の傾向もあり、藩士に相当な影響をあたえた。

 門弟のなかの岡野石城(せきじょう)は、家老河原舎人(かわらとねり)正春の二男で、岡野家の養子となった。名は融、通称は陽之助または内蔵太(くらた)といった。近江(おうみ)(滋賀県)出身の禅僧千丈実巌(せんじょうじつがん)を、長国寺住職として藩主に推挙し、藩の漢学の師とした。千丈は漢詩文の大家で、一五年間にわたって松代で詩文を教え、その弟子からは鎌原桐山(かんばらとうざん)・西沢茂台(もたい)・佐久間神渓(しんけい)・竹内錫命(しゃくめい)などが出た。千丈の詩文『幽谷余韻(ゆうこくよいん)』はのちに弟子の鎌原桐山によって江戸で出版された。

 南陽が松代を去ったのち、岡野石城は千丈と協力して儒学を興し、公務のかたわら寛政元年(一七八九)五月から藩命により評定所において一・六の日に経書を講ずるようになった。石城出府中は、藩士窪田久(号馬陵(ばりょう))が袮津神平(高七五〇石)宅で毎月四・十七の日に古文孝経などを講じた。藩士の嫡子ほか番士や二男・三男も出席が許可された。さらに善光寺町の儒者藤井藤四郎が扶持を得て、毎月四の日にお城の大書院で講義をおこなったが、数年後に出入りを差し止められ、しばらく講釈が途絶えた(漫筆)。

 石城は私塾翠篁館(すいこうかん)でも教授し、門下に鎌原桐山、竹内錫命などがいる。著書には『詩経纂説(さんせつ)』・『尚書纂説』・『礼記纂説』・『孔子家語纂説』・『春秋左氏伝考』などのほか詩文も多い。寛政期には、東寺尾村(松代町)生まれで、荻生徂徠門人片山兼山の弟子となった久保庄右衛門も出た。寛政元年七月三日、藩主幸弘が江戸の藩邸に久保庄右衛門を召して「孝経」の講義をさせ、幸弘、同夫人、藩士らが聴講している。

 文化年間以後、儒書講釈をさかんにしたのが、西沢茂台であった。西沢茂台は、松代に生まれ、通称を三郎四郎といった。岡野石城や千丈実巌に学び、のちに江戸に出て徂徠派の古屋昔陽について学んだ。墓碑銘によると江戸に出て幕府天文方渋川子極(渋川景佑(かげすけ)祖父か)に天文学を学んだという。文化三年(一八〇六)から、西沢茂台を講主として儒書輪講が御用屋敷で始まった。その同盟規条(学則)には、入学時に束脩(そくしゅう)を納めること、会業の日には遅れないことなど一一ヵ条が定められた。輪講名籍をみると「『礼記坊記』山口直昌、『礼記学記』竹内保定、『論語為政』竹内安括、『礼記緇衣(しい)』金児貞賢、『孝経』金子忠澄、『論語公冶長』関山正義、『論語先進』綿貫盛政、『論語顔淵(がんえん)』大草茂昌、『礼記学而』菅沼正房、『礼記玉藻』西沢貞政、『毛詩周益』金井晟(あきら)、『礼記表記』河原綱徳」(漫筆)とあり、藩主もときおり臨席して激励していた。輪講者は多少変動はあるものの、このように多くの藩士が儒書を講釈できるように学問が高まっていた。松代藩内に儒学の伝統が生まれ多くの逸材が輩出するようになった。


写真12 西沢茂台墓
  (松代町西条 恵明寺)