松代三山

421 ~ 424

松代藩士のなかで三山と称された学者が、鎌原桐山(かんばらとうざん)・山寺常山(やまでらじょうざん)・佐久間象山である。鎌原桐山は、安永三年(一七七四)に生まれ、字(あざな)子斎、諱(いみな)は重賢、通称は伯耆(ほうき)のち石見(いわみ)、桐山と号した。経書・詩文を松代藩儒岡野石城、岩村藩儒のち幕府儒官の佐藤一斎(いっさい)らに学んだ。射法、騎法、槍法、刀法、兵学、銃法、規矩術(きくじゅつ)、礼法など文武百般に通じ、点茶、故実、横笛まで奥義に達していた。藩主幸弘・幸専(ゆきたか)・幸貫(ゆきつら)の三代に家老として仕えた。私塾朝陽館(ちょうようかん)の門人のなかから山寺常山・佐久間象山・長谷川昭道(しょうどう)らが出た。蔵書は一万巻余にも達し、著書にも『覆瓿余稿(ふくほうよこう)』、『隠居放言』などのほか、随筆『朝陽館漫筆』一六二巻は、当時の世相・文化を知る貴重な史料となっている。


写真13 青木雪卿筆「鎌原桐山肖像」
  (真田宝物館蔵)

 山寺常山は、名は信龍、字は子彰、通称は幼時金太郎、のちに源大夫、常山と号した。ほかに不息軒、懼堂(くどう)、使無堂、静修斎とも号した。はじめ鎌原桐山に学び、のち幕府儒官古賀侗庵(とうあん)に学び、佐藤一斎、松崎慊堂(こうどう)らとも交友をもち、松代でも三山の一人にあげられる碩学(せきがく)となった。『常山文集』『松代封内(ほうない)実測図』などを著している。

 佐久間象山は、松代有楽町(うらまち)の松代藩士佐久間神渓(しんけい)の子として生まれ、通称修理(しゅり)、字子迪(してき)のち子明、諱は幼時国忠のち啓(ひらき)、大星ともいう。号は象山ほか槍浪(そうろう)、観水道人など。鎌原桐山に経書を学び、算学を町田源左衛門に学び、一五歳で易経(えききょう)をこなすほどであった。二三歳で江戸に出て、佐藤一斎につき儒学を修め、天保十年(一八三九)には神田お玉が池に漢学塾象山書院を開いた。アヘン戦争後、蘭学への関心を深め、さまざまな西洋技術の導入をはかったことは蘭学の項で紹介する。元治(げんじ)元年(一八六四)三月、幕府の命をうけて京都に上り、公武合体、開国のため奔走したが、倒幕派により三条木屋町で暗殺された。五四歳であった。

 以上のほかに、林単山は埴科郡矢代村(千曲市)出身で林家(りんけ)の嗣となった。若くして江戸に出、林大学頭述斎(だいがくのかみじゅつさい)の塾で経書を修めた。文化三年(一八〇六)江戸藩邸で「孝経」を講じたが、松代において門弟多く、文化十年には三〇〇人にも達したという。竹内錫命(しゃくめい)は、通称八十五郎(やそごろう)。更級郡力石村(千曲市)の農家に生まれ、藩士竹内氏の養子となり、岡野石城について経学を学び、さらに江戸に出て幕府儒官古賀侗庵に学んだ。松代に帰って藩の句読師(くとうし)に進み、数十年にわたってこれを勤めた。その門下より小林畏堂(いどう)、宮下主鈴、長谷川昭道が出ている。

 活文禅師(かつもんぜんじ)は、安永四年(一七七五)松代藩士森久七の二男に生まれ、名は久五といい、一〇歳で小県郡和田宿(和田村)信定寺の仏弟子となり、のち長崎・江戸に遊学し、文政七年(一八二四)小県郡岩門(いわかど)(上田市)の大日堂で私塾を開いた。文政十一年春、一八歳の佐久間象山が入門した。禅師は象山の逸材を見抜き全力で愛導した。象山は感激して松代から地蔵峠を越えて八里の道を馬で通って学んだ。活文と象山の師弟関係は終生変わらず、象山はよく禅師をたずねて教えをうけた。禅師は禅学はもちろん、和漢の学・彫刻・詩歌に通じ、蘭学を修め、時勢の動きに通じていた。

 長谷川昭道は、はじめ名は元亮(もとすけ)、通称は深実(ふかみ)、戸隠舎と号し、別に一峰、静倹陳人、東洋逸民の号もある。漢籍を鎌原桐山、竹内錫命、佐藤一斎の門に学び、その他兵学、西洋砲術なども学んで頭角をあらわした。藩の文武学校が設立されると、その実務で功があり、元治元年(一八六四)藩の京都留守居役になり、朝廷と松代藩との連絡にあたり、松代藩の維新動向に関して大きな影響力を発揮した。その多数の著述は『長谷川昭道全集』全二巻に収められている。このほかにも、錫命や佐藤一斎について経書を学び、のちに藩の句読方頭取として功のあった小林畏堂や、象山・林大学頭に師事して経書に通じた高野真遜(しんそん)などもいる。

 儒学は、一八世紀半ば以後、松代藩の学問奨励に支えられて発展し、一九世紀以後にいたってこの道の人材を輩出し、その花を咲かせたということができる。内容も寛政異学の禁以後は朱子学を主とし、朱子学も教義の解釈というより漢学全般の経験主義・実用主義的なものへ変容した。さらに、身分を越えた学問的交流が高まるにつれ、儒臣や僧、儒医らに学んだ庶民のなかには、学問の世界に身を投じようとするものもあらわれた。

 女子教育にかかわった藩士の妻もいた。松代竹山町の藩士田中佐左衛門の妻せきが、女子だけを集めた寺子屋を開いた(『県教育史』⑧)。藩主夫人の御側右筆(おそばゆうひつ)をつとめた経験をもつ田中せきは、文化年間(一八〇四~一八)から慶応年間(一八六五~六八)まで五〇年ほど、ひらがな文や女公用・私用文、物語などを教材にして学ぶ機会をあたえていた。