漢学者には能書家も多い。鎌原桐山筆による書や碑文は松代地方に多く残されている。桐山に詩文を学んだ山寺常山も堂々とした書を残している。佐久間象山もまた書家としても著名で、若いときは蘭亭序(らんていじょ)、三蔵聖教序などの影響をうけ、三七歳以後は顔真卿(がんしんけい)の書に傾倒するようになった。象山の遺墨はきわめて多い。漢詩はほぼ全詩形を網羅しているが、五言古詩、七言絶句、五言律詩が多い。
東洋道徳・西洋芸術、匡郭(きょうかく)
相依りて圏模(けんち)を完(まった)くす、大地の周囲一
万里。還(ま)た須(すべか)らく半隅を欠き得べしや無(いな)や
これは佐久間象山がアヘン戦争での衝撃をうけ、蘭学を学ぶ必要性を感じて、東洋道徳(朱子学)と西洋芸術(西洋技術・蘭学)が相寄って丸い地球のように完全な形になるとの思想を述べた詩である。
象山には賦(ふ)(心に感じたことや事物を直叙した漢詩文)は一〇編あり、なかでも「望岳賦(ぼうがくふ)」と「桜賦」が有名である。象山書の幟(のぼり)も各地に残されている。蚊里田(かりた)神社(若槻東条)には「威稜扶宇宙(威稜(いりょう)宇宙を扶(たす)け) 恩眷煦生霊(恩眷生霊(おんけんせいれい)を煦(く)す)嘉永甲寅(こういん)(七年)三月 象山平啓子明書」という幟がある。
松代三山といわれるこの三人のほかに、幸貫時代の藩医渋谷竹栖(ちくせい)は蘇東坡(そとうば)に私淑し、同時代の高川楽真は隷書(れいしょ)を得意とした。松代藩士金児雪庵(かねこせつあん)は島原藩士岩瀬華沼について書道を学び能書家であった。竹村杏村(きょうそん)ははじめ桐山に学び、幕府儒官佐藤一斎や漢詩人柳川星巌(やながわせいがん)などに師事し書や水墨画をたしなんだ。維新にさいし藩論を新政府がわにまとめた功績のある長谷川昭道の書も名高い。