松代の能囃子

425 ~ 426

豊臣秀吉は大和猿楽(やまとさるがく)四座(金剛(こんごう)・金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう))保護のため、各一〇〇〇石前後の配当米を諸大名に割りあてた。徳川氏も秀吉をうけついで、能楽を幕府の式楽(しきがく)とし、正月二日(のち三日)の幕府謡初(うたいはじ)めには諸大名が参列した。諸大名は、名人といわれる能役者を求め、松代藩でも正月二日(のち三日)に謡初めがおこなわれた。謡(謡曲)は能の詞(ことば)書きを音楽化して語るもので、大和四座それぞれに流派があった。能衣装も、真田家から加賀前田家をへて江戸の能役者の手に渡ったものという上田縞(じま)による現存最古の能衣装が残されている。

 三代藩主真田幸道に仕えた観世流西村三郎兵衛は名人として知られる。その子小十郎も三郎兵衛を襲名し、観世流の名手として六代幸弘、七代幸専(ゆきたか)、八代幸貫(ゆきつら)三代に仕えた。謡は松代藩士南沢甚之助や同岡島庄蔵らに受けつがれ隆盛した。家老鎌原桐山(かんばらとうざん)も観世流九番・十番を二代目三郎兵衛に習っている(漫筆)。

 文化七年(一八一〇)十月、幸専が居間で西村小十郎の仕舞いを観覧した。金児総左右衛門・三井寿一郎・金児丈助の三人が地謡(じうたい)をつとめた(漫筆)。地謡とは、能や狂言で役者以外によって斉唱される謡のことである。

 文化九年秋には、能役者西村小十郎がシテ(能や狂言の主役)、松村才治郎が太鼓(たいこ)(太鼓を打つ能楽師)として松代によばれ、囃子(はやし)(能では笛・小鼓(こつづみ)・大鼓・太鼓の四種の楽器使用)や袴能(はかまのう)(面や装束をつけず紋服や袴で演ずる能)などを演じた。九月二十七日には蓮乗寺で小十郎催しの能囃子があった。小十郎は「羽衣(はごろも)」、「猩々(しょうじょう)」、「実盛(さねもり)」、「山姥(やまんば)」などを演じ、小山田采女(うねめ)など家臣もまた役者となって演じており、能が松代藩士のたしなみとなっていた。松村才治郎の養子松村国太郎も太鼓打ちにすぐれ、江戸で観世の能楽太鼓役をつとめた。