謡曲と北信流

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謡曲は、二代目三郎兵衛の門人岡島庄蔵門下から松代藩士大谷津又蔵、同中川義道らに受けつがれ、その門人らから廃藩後の明治時代以後に在村の門人へ広がった。旧藩の能や謡曲の流れをくむ人びとは、城下・近郷の人びとに謡曲を教えた。こうして松代町の島田鶴、東福寺村(篠ノ井)の高橋清輝、今井村(川中島町)の北村市太郎らはそれぞれの地で師匠となり、東京から観世流の家元をよんで稽古会をするなど、謡曲の普及につとめた。塩崎村(篠ノ井)の丸山大鳴堂も観世流宗家について学び、春原(すのはら)礼治、南沢甚蔵ら多くの門人を育てた。笹平村(七二会)の柿崎池水も医業のかたわら、和算や謡曲をよくして子弟に教授した。のち矢代宿(千曲市)へ移り、医業のほか和算・謡曲を指導した(『七二会村史』)。

 更級郡川合新田(芹田)の北村勝登(号剱謡庵(けんようあん))は、通称見僚(けんりょう)、老いて九十九(つくも)と称した。撃剣と謡にすぐれ、朝は挿花(そうか)、夕べは笛をたしなむ風流人であった。嘉永六年(一八五三)に七八歳の寿を祝って門人たちが、善光寺町の文人岩下貞融(桜園)の撰文による寿碑を善光寺本堂西がわに建てた。それによると、門人「およそ五百余人、仰ぎて曰(いわ)く剱謡庵先生」とある。剱謡庵門人で風間村(大豆島)の竹内善兵衛知義も謡師匠として活躍し、門人らによって明治十八年(一八八五)寿碑が善光寺本堂西に建てられた。撰文は須坂町(須坂市)出身の明治期教育者で書家の北村方義(ほうぎ)である。


写真15 謡師匠北村勝登碑
  (善光寺境内)

 幕末から明治にかけての宝生流謡曲家岡本翠山(すいざん)は、もと越後長岡藩士で、長野の岡本家を継ぎ、「長野の地たるや、謡曲盛行、君に就きて教えを受くる者、千有余人」(碑文)とあるように、謡曲をはじめ、武術・俳句・礼法など指導した。碑が善光寺忠霊殿前にある。

 在村で冬期間などに小謡(こうたい)などを楽しんでいた村の人びとへ、明治期に、旧藩や東京の宗家の指導が入ることによって、祝い事などにおさかなと称して謡を披露・交換する北信流とよばれる謡曲が盛況となった。