松代の雅楽

427 ~ 428

文禄(ぶんろく)・慶長ころに創始された人形浄瑠璃(じょうるり)の最初のテキストは、浄瑠璃姫十二段であった。この作者といわれてきた小野正秀の娘お通と、真田信之・信政とは深い因縁がある。小野お通は信長・秀吉の時代に宮仕えをして、和歌・漢詩・琴棋書画(きんきしょが)に通じた才女で、信之と深い親交があったことは元和八年の書状で見たとおりである。お通の子円子(二代目お通のことで、『信濃史料』23では初代お通を「信政ノ妾」と誤認している)もまた才女で、信政の側室となり、寛永十一年(一六三四)に勘解由信就(かげゆのぶなり)を生んだ。元和八年、信政が家臣鈴木右近(うこん)に託した在京の円子への書状には、来春上洛すること、円子への恋情や生まれた子に逢いたいこと、書の近衛(このえ)流の手本をみせてもらったことへのお礼などが書かれている(真田淑子『小野お通』)。

 箏(そう)(琴)は、江戸初期の二代目お通が八橋検校(やつはしけんぎょう)から伝えられたという八橋流が松代真田家分家により受けつがれてきており、貴重な文化伝承となった。天明年間(一七八一~八九)のはじめ、江戸から藩主の側女中として招いた多代という女性が菊崎検校(けんぎょう)から伝授された幾多(生田)(いくた)流も伝わった(漫筆)。

 儒者菊池南陽が松代へ来てなぐさみに横笛を教え、小松庄兵衛などが学んだ。寛政年間(一七八九~一八〇一)のころ、竹山同心町天光院蘭冏(らんけい)和尚が、京都から来た楽人を二、三ヵ月逗留(とうりゅう)させ、横笛や笙(しょう)・篳篥(ひちりき)などを学んだ。藩士の窪田馬陵(ばりょう)も横笛を江戸で修業し上達していた(漫筆)。松代の雅楽(ががく)をさかんにしようとした八代藩主真田幸貫は、藩士高田法古を江戸や京都へ派遣し、笙・篳篥などを学ばせている。

 三絃(さんげん)とよばれた三味線は、五代藩主信安のときに召し抱えられた富一と沢一という瞽者(ごぜ)(盲目の門付け芸人)が、田町の長屋に居住し、長唄などの弟子をとり、松代一円に流行した。富一と沢一以前に、宇一と城悦という二人の座頭(ざとう)が三弦の上手として知られ、宮古路という浄瑠璃(常磐津(ときわず))を語って聞かせていたが、富一・沢一いらい、松代の三弦がさかんになった(漫筆)。